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29日の産経新聞記事です。
このままでは、日本の山林水資源まで、中国人の手に渡ります。
外国人の地方参政権の付与とも関連する重大な問題です。
いますぐ手を打つべきです。
埼玉県や山梨県、長野県、岡山県など全国各地の水源に近い山林について、中国などの外国資本が買収の打診してきていることが、東京財団がまとめた「グローバル化する国土資源(土・緑・水)と土地制度の盲点」と題した調査報告書で明らかになった。類似した事例は、三重県大台(おおだい)町の水源林をめぐっても確認され、問題となっている。
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記事本文の続き■取引面積10年で倍
調査では山林買収が相次いで打診される背景に、水資源などの世界的な獲得競争があると指摘。「日本の土地制度には、国土を守る意味で多くの問題がある」と警鐘を鳴らしている。
報告書では国内の森林売買が急速に進む実態を統計や事例で明らかにしている。ほとんどが森林で占められる5ヘクタール以上の土地取引をみると、1999年当時、取引総面積は1万4000ヘクタールだったが、2008年には3万2000ヘクタールと、約10年で倍以上増えた。取引件数もこの間、1・5倍に増え、最近3年間の伸びが激しい。
また、山林買収の事実関係の把握が困難な点を指摘。世界の水需給の逼迫(ひっぱく)が予測され、獲得競争が展開されるなかで、日本の「水」が狙われている可能性に言及している。特に中国の水需要が04年までの7年間で4倍以上伸びており、日本から水を調達するため、買収に食指をのばしている可能性を示している。
今後、環境問題の取り組みが世界的に強化されるなかで、二酸化炭素(CO2)吸引源とされる森林の投資価値が高まり、森林売買が加速する可能性も指摘。乱開発による住民の安全・安心が脅かされる恐れにも言及している。
日本の土地制度の問題点として、地籍調査が48%しか完了しておらず、所有権の移転を自治体でも十分に把握していない点を挙げ、実態把握や所有権移転の事前届け出などの規制策を提言している。
■安全保障の観点
報告では水源林以外にも、外国資本による国土を買収例を提示。香港やオーストラリア(豪)資本の活動で地価上昇率が3年連続で全国一となった北海道ニセコ町や、廃屋化したホテルなどを買収し分譲マンションを建設中の長野県白馬村の豪資本の動きを挙げ、公益や安全保障などの観点から、国土資源(土地・森林・水)を守るため十分な備えが諸外国並みに必要だと説いている。 |
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2010年03月30日
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早朝の読書と清掃、そして夕方の練習を続けて半年ほどすると、
選手たちの真摯な姿勢、他人へのやわらかい物腰、
何かを学ぼうという真剣なまなざしは日本人以上に日本人らしくなっていました。
「時を守り、場を清め、礼を正す」
小田島さんもこれがこれほどまでに効果が上がるとは思っていませんでした。
日本の教育現場は荒れています。
ならばこの選手たちの成長の姿を見せたら、忘れかけている日本の躾の素晴らしさを
再認識して貰えるだろうと小田島さんは考えました。
そこでウガンダの様子をDVDに収めて日本でお世話になった人達に送りました。
するとそれを見て感動した日本の人達が、
「ウガンダ・チームを日本に呼ぼう」と言い出しました。
そして有志たちが「ウガンダ国際交流実行委員会」を立ち上げて
日本に来る資金を募金し始めたのです。
小田島さんは選手達に日本の有志たちの活動を伝えました。すると選手達は、 「仕事があるのに家族でも親戚でもない私たちのために動いている」
「彼らは人のために動くことができる本物のジェントルマンだ」
「この恩に報いるためにもジェントルマンになって日本に行かなければならない」
選手たちは日本のその思いに感謝し、それに応えようと益々真剣になっていきました。
朝は1時間も早い朝3時半には来て、
自発的に読書や授業の準備をする選手も増えてきました。
掃除も小田島さんが「そこまでやるか」と思うほど徹底してやるようになりました。
そして、平成20年1月24日。
セントノア高校野球部の選手達、校長、そして小田島さんら総勢15名が
関西国際空港に降り立ちました。
折から北海道は大雪で札幌行きの便が飛び立てるか心配でしたが、
なぜか一行を乗せた便だけが欠航とならずに新千歳空港に到着したのです。
小田島さんは選手達や日本の有志達の強い思いが天に届いて、
応援してくれたように感じて涙がこぼれてきた。
初日は登別の温泉に行きました。
母国ではたらい一杯の水で体も頭も洗う彼らは、
お湯がなみなみと張られている湯船にびっくりしました。
選手たちは体を洗い終えると、使った桶を片付け、腰掛をまっすぐに並べた。
物を使ったら、次の人のためにきれいに片付けるという事が、
当たり前のようにできるウガンダ青年たちの姿に、日本人が驚いた。
札幌ドームで北海道日本ハムファイターズ中学生選抜チームと親善試合を行いました。
屋根つきの体育館すらほとんど見たことのないウガンダ選手たちにとって、
屋根つきのドーム球場はまるでSFの世界のように見えただろう。
実力ははるかに上の相手で、大差で負けてもおかしくなかったが奇跡が起こった。
0対0の引き分けだったのです。
投手のべナードが何かが乗り移ったのかと思うほど冷静で粘り強い投球を見せました。
守備での相互のカバーリング、声の掛け合い。
チームの一体感は相手を上回っていました。
技術の差を「心」でカバーする、まさに日本野球をウガンダ選手たちは見せたのです。
試合終了後、2千人以上のスタンドからウガンダ・チームに大声援が送られました。
当時、夏の甲子園で優勝した駒大苫小牧高校野球部 元監督の香田さんは
試合を見て次のように語りました。
「ウガンダ人の野球に対する姿勢が本当に勉強になった。試合中に5回ほど涙が出そうになった。子供の頃、初めてボールを握った感覚や、楽しくボールを追っかけていた過去が蘇りました。言葉ではうまく表現できないけれども、日本野球に失われたものを彼らは持っている」
日本への旅は選手たちを一段と成長させました。
「正しいことを積み重ね、良い人間になれば、誰かが必ず応援してくれる」
このことを経験から学びました。
・・・・・・
帰国後、20名近くの部員が新たに入部しましたが、
先輩部員たちは毎朝4時半に彼らを起こし、時間通りに清掃を始めました。
後輩部員も夢を叶えた先輩を尊敬し積極的に真似ようとしました。
その結果、先輩たちが6ヶ月かかったことを、
後輩たちは1ヶ月で出来るようになりました。
さらに先輩部員たちは自分たちの経験を多くの人に伝えようと校内で集会を開いては
「時を守り、場を清め、礼を正す」の大切さを一般生徒にも説いていました。
そんなある日、小田島さんはセントノアセカンダリー高校の先生から、
こんな質問を受けました。
「日本は先の大戦で原爆を2つも落とされ敗戦した。
国がひどい状況になったにもかかわらず60年たった今、
世界で有数の豊かな国になっている。
ウガンダは独立してから50年以上経つが、まだこのような貧乏な国である。
あと10年したら日本のような国になれるのか?
そしてどうして日本がそんなに豊かになったのか教えてほしい。
それがわかればウガンダの発展のヒントになると思う」
小田島さんは、この質問に答えることが出来なかった。
日本人でありながら、そのようなことを考えたこともありませんでした。
この質問の答えを見つけるべく日本のことを調べていく中で、
「焼き場に立つ少年」という写真に出会いました。
アメリカの報道写真家が戦争直後の日本を撮った1枚で、
10歳ほどの少年が死んだ赤ん坊をおぶって直立不動の姿勢で
焼き場の順番を待っている姿でした。
悲しみに打ちひしがれながらも、涙一つ見せずに、
強い意志を持って自分の責任を果たそうとする少年の姿に、
この時代の日本人の精神性の高さを知りました。
指先を伸ばし、あごを引いて、直立姿勢を保つ少年。
あの時代の日本は家庭や学校での「躾」や「教育」がいかに素晴らしいかを
思い知らされました。
「わずか10歳でもこのような凛々しさを持っている」
この子供に理想の日本人の姿を見た思いでした。
「先祖のたゆまぬ努力があって自分の夢が実現する。 そう考えると自分の人生は自分のものだけでなく、先祖のものであり、
子孫のものでもあるのだ。自分のためだけでなく次の世代のためにも、
自分の人生を完全燃焼しなければならない」
ウガンダでの2年間は選手たちと共に小田島さんの心も大きく成長しました。
ウガンダを去るにあたって小田島さんは次の言葉を選手たちに贈りました。
「私は日本を良くするために生きる。
そして君たちはウガンダを良くするために生きてほしい。
私はウガンダで君たちのようなジェントルマンに会えたことを誇りに思う。
それぞれの国で人生のチャンピオンになろう」(了)
・・・・・・・・・・・・・・・
小田島さんからメッセージを戴きました。
「今、ここ日本に生まれ、生きているということに心から感謝できたとき、はじめて自分の人生を本当の意味で価値あるものに思えてきます。
私はアフリカ・ウガンダで、ウガンダ国、ウガンダ人を鏡として、
日本国、日本人である自分を見つめなおし、自分を深く知ることができました。
今の人生を本気で生きなければならないと感じました。
日本人一人ひとりが、今この時代に、ここ日本という素晴らしい国に生まれてきたことにそれぞれ、深い意味があります。
その意味を知るために、さくらの花びらさんのように、先人の偉業、
努力、日本の文化、精神を知ることが、大切であると考えます。
日本国、日本人を深く知ることで、己を知ります。
己を知れば、自然と、自分の志が見出され、
役割、生きがいが見えてきます。
今回、素敵なブログに出逢い感謝すると共に、己を知るためにも、
今後ともプログを通じて、学ばせていただきたく思います。
感謝します。」
小田島裕一
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小田島裕一さん。
我々日本人に勇気と誇りを与えてくれるその行動力。小田島さんの素晴らしいお話を今日と明日の二日間で書いてみたいと思います。
(この記事は小田島さんご本人から了解を得て書きました)・・・・・・
教師生活も5年が経ち、無気力な生徒たちを見て
「何か生徒に夢を持たせ、それに向かわせたい」
そう感じていた札幌の中学校教師、小田島裕一さん。
しかし子供達に「夢を持て、夢を持つことが大切だ」と言いながら、
大学時代には東北福祉大学の大魔神 佐々木投手とも対戦したという。
平成8年のことです。
元近鉄の野茂英雄投手がメジャーリーグで大活躍していました。
当時、日本人がメジャーで活躍するのは無理だと言われていましたが、
野茂はその困難に果敢に挑戦し、そして成功しました。
小田島さんは同世代の野茂が夢に向かって挑戦する姿を見て、
そのためにまずは青年海外協力隊に採用されることでした。
しかし青年海外協力隊の選考試験に何度挑戦しても合格できない。
ある面接官からは
「あなたみたいな、ただ行きたいだけの人が行くと相手の国が迷惑なのだ」
とまで言われました。 その後、10年かけて8回目にして合格しました。 ・・・・・・
平成19年9月、青年海外協力隊の一員として
アフリカ・ウガンダ共和国セントノアセカンダリー高校に2年間赴任します。
早速、野球のグラウンドに行って見ると選手はたった5人。
上半身裸で練習している生徒、ガールフレンドに膝枕され耳掃除をして貰っている者、 練習中に立ち小便をしたり、鬼ごっこをする者、・・。
そして部室に行くとまるでゴミ箱状態で、グローブやバットが床に捨てられていた。
小田島さんが5人の選手に目標を尋ねると
「ウガンダ・チャンピオンになりたい」と答える。
聞けば現チャンピオンのチャンボゴ高校に今年1対30で負けたという。
「ウガンダ・チャンピオンになるために君たちは野球の前にすべきことがある。
私は日本の野球をモデルにして君たちを指導したい」
「はい、コーチ」
「日本の野球が世界一なのは、その目的が人間を育てることにあるからだ。
私は日本のやり方で君たちをジェントルマンにしたい。
ジェントルマンとは自分のためだけでなく人のためにも喜んで動ける人のことである」
まず時間の概念がない。学校には時計がなく、
時計がなくとも困らないほどみんなが時間にルーズでした。
整理・整頓・清掃の習慣もありません。ゴミはその場でポイ捨て。
一日の授業が終わっても生徒が掃除をする習慣がありません。
礼儀もこちらが挨拶しても無視。
話を聞いている時も肘をつき、あらぬ方を見ている。
練習中にボールを拾っても「ありがとう」の一言もない。
やはり日本とは違う外国である。
これらの根底にあるのは「自分さえ良ければ」という考え方だと小田島さんは思った。
時間を守れない人は待たせる相手のことを考えていないからである。
後片付けや掃除がきちんとできないのは次に使う人のことを考えていないからだ。
礼儀がしっかりしていないのは相手に対する敬意が足りないからである。
どんな荒れた学校も良くなるという教育再建の三大原理である、
「時を守り、場を清め、礼を正す」
この躾から始めなければならないと小田島さんは考えました。
そこでまず始めたのが早朝の読書と清掃でした。
生徒に毎朝4時半に学校の教室に集合させ、6時まで教室で読書。
その後校内の清掃を行って7時からの授業開始に備えさせました。
しかし選手たちは雨が降れば平気でサボる。
ウガンダでは雨が降ると仕事は休みになります。
掃除中でも眠くなれば寮に帰ってしまう。
そんな選手達に怒り、怒鳴る日々が続きます。
いつしか小田島さんは
「ウガンダ・ジェントルマンを育てることなど出来ないのかもしれない」
と弱気になり始めていました。
「彼らの進歩に一喜一憂していた自分にはどこか焦りがあった。
選手たちが自分の期待通り動いてくれないのは、
自分の側に「時を守り、場を清め、礼を正す」ことの大切さを
本当の意味で理解していなかったからではないのか。
今思えば日本で自分も遅刻をしたり掃除を選手に任せたりしていた。
自分自身が習慣になっていないものを彼らに要求していた。
彼らのミスを責める前にまず自分が本物の日本人にならなければ」と思い到りました。
うまくいかない原因を選手ではなく自分自身の問題と思うようになってから、
不思議なことに選手たちは想像以上に速く成長していきました。
朝の清掃と読書を始めた当初、選手たちからは
「ウガンダでチャンピオンになるために、もっと技術練習をしたらどうですか」
と言われた。
たしかに野球コーチが練習より遅刻や掃除、挨拶をうるさく言っているのは、
彼らには理解できなかったろう。
しかし時間は守れない、練習はさぼる、人の話は集中して聞けない、
という状況は、コップが下を向いているようなもので、
いくらコーチが技術指導した所で水はコップに入らない。
まずは選手の心のコップを上向きにしなければならない。
そのために必要なのが「時を守り、場を清め、礼を正す」でした。
これが自然と出来ていくうちに心のコップが上を向いてくる。
こうなって初めて技術練習の意味が出てくる。
その成果はやがて試合の結果にもつながっていったのです。
チャンピオンチームのチャンボゴ高校に全く歯が立たなかった彼らが、
指導して6カ月後には9対10とほぼ互角の戦いが出来るまでになりました。
練習時間は1時間のまま変わりませんが、練習の密度があがっていたのです。
選手も結果が出始めると小田島さんのやり方を信頼するようになっていきました。
朝の読書や清掃を始めて6カ月。
選手たちは掃除をすることで「気づく人間」に成長していきました。
そして仲間の表情や態度から他人の気持ちを察することが
出来るようになっていきました。・・・
いつもと違い道路から直接グランドに入る小田島さんの姿に選手たちは気が付かない。
大きな声が響き渡るグラウンド。
一人ひとりの真剣な目。 力一杯走る姿。 みんなが一生懸命である。
「コーチがいないのに、こんなに真剣にやっている」
小田島さんは思わず目頭が熱くなり、涙があふれてきた。
「こいつら、なんでこんなに一生懸命なんだ」
嬉しかった。
一生懸命の姿は美しい。
こんな光景が見られるとは思ってもいませんでした。
つづく・・・
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ビルマが英国に植民地支配されている頃、英国人は学校を作りましたが、1920年の時点で学校数は90校で高等教育の場はラングーン大学(現ヤンゴン大学)とミッション系の大学しかなく、就学率はわずか4.9%でした。 仏印インドシナ(フランス領のベトナム、ラオス、カンボジア)では1922年で就学率1.7%、1942年でも3%です。白人は有色人種に教育を施す気はありませんでした。賢くなって反抗されては困りますから。教育を受けたものは名誉白人という称号を与え、そうでないものは白人の良き下僕となるように仕向けられました。 大学ではきっちりとした教育が行われていたかというと戦後、ビルマで抑留生活をしていた会田雄次氏の記録に面白い話が載っていました。ラングーン大学の英文科を卒業したビルマ人に会ったときのこと。そのビルマ人はシェイクスピアに関する卒業論文を書いたといい、「カンタベリー物語」(イギリスの詩人、ジェフリー・チョーサー)を読んだという。会田氏がその本を見せてくれというとビルマ人は大得意で貸してくれました。ところがその本を見てみると絵入りのカンタベリー物語、シェイクスピア劇物語であり、日本で言えば中学校2,3年生程度が読むような簡易化した本でした。大学といっても英国人はこの程度しかビルマ人を見ていなかったわけです。 もっとも英国人も大したことはなく、この当時、算数が出来るものは少なかったようで、会田氏の著書によると英国人は掛け算ができない。経理担当の英兵士は計算はできますが、そうでない兵士がトラックの荷物の受け取りなどに来ると48個入りの木箱が20だと48を二十回足し算していたため計算に20分ぐらいかかっていたといいます。収容所内で新聞の発行許可をもらいに英将校のところへいくと「日本人の中で文字が読めるのは何人いるか?」と聞かれて「全員読める」といったところ、イギリスでもとてもそうではなかったため、信じなかったと述べています。 英国はブルジョワジーとプロレタリアートがはっきりしており、軍隊の中でも士官と下士官ははっきりしており、日本軍の一兵卒が大学の講師をやっていたと言うと信じてくれなかったと会田氏は述べています。 ちなみに日韓合邦時代の朝鮮半島では1916年から3村1校の教育普及政策が推進され、1925年の就学率は15%。高等教育では98校。大正13年(1924年)に京城帝国大学が設立されています。大阪帝大や名古屋帝大よりも早く設立されています。1929年からは1村1校が進められます。昭和11年(1936年)には公立普通学校は2,500校に達し、1943年の就学率は61%。台湾では1943年には義務教育を実施しています。これらの数字を見ても朝鮮、台湾を「植民地」と呼ぶのは誤りです。 参考文献 「日本はどれほどいい国か」日下公人・高山正之著 「アーロン収容所」会田雄次著 「日本の植民地の真実」黄文雄著 添付画像 1945年ごろのラングーン大学(講堂だと思われる Glenn S. Hensley氏)
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