さむらい行政書士 庭山行政書士事務所

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昨日、NHKで日曜日の2100から「日本と朝鮮半島」第3回戦争に動員された人々というNHKスペシャルをやっていました。
少し見ていましたが、あまりにもNHKが意図的過ぎて、気持ちが暗くなってきて、とても見られた番組ではありませんので、途中で消してしまいました。
内容は言うまでもなく「日本が悪い、可哀想な韓国人」ということに尽きるのでしょう。
ありもしない従軍慰安婦も出ていました。
 
番組では今年になってご遺骨が韓国に戻ったと言って、遺族が変り果てたその姿を見て泣いているところを放映していました。
言うまでもありませんが、今の平和な時代に遺骨だけで戻った場面をいきなり見せられれば「酷い」という印象しか残りません。
しかし当時は朝鮮も台湾も日本のもとで繁栄と発展を享受された一方で、
互いに一つの国としてあの苦しい戦争をも戦ったのです。
日本人は祖国日本を護るために、朝鮮人も祖国朝鮮を護るために日本と一つになって戦ったのです。
 
ご遺骨といえば日本の戦没者の半分以上がいまだに戦地のあった他国で野ざらしのままです。
失礼を承知で言えば、ご遺骨が遺族のもとに戻っただけでもまだまだましなほうです。
NHKという公共放送がスペシャルという特集を組むならば、
戦後65年間の日本政府のご遺骨に対しての在り方こそ問うてほしい。
・・・・
 
 
韓国では「日韓併合は亡国」と言い、
閔妃を「明成皇后」と尊称し、高宗が送ったハーグ密使の李儁を「烈士」と賞する。
そして終戦を「解放」と呼び、
終戦の815日を光を再び取り戻した日として「光復節」として祝います。
しかしこういうことが韓国人にとって本当に幸福だったのでしょうか。
 
日本が敗戦するとまるで自分たちが戦勝国にでもなったかのように振舞い始め、
日本を恨み、日本女性を強姦し、日本人を虐殺して、その財産を奪うことが「解放」だといって、
本当にそれが喜ばしいことだったのだろうか。
 
実際は「解放」どころか朝鮮の苦悩はそこから始まるのです。
終戦から朝鮮民族は南北分断し、左右対立、虐殺動乱、戦争、餓え、圧政という
長い地獄の日々の始まるのではないか・・・。
 
韓国と北朝鮮では「日本は我々を搾取したのだから日本人の財産は略奪してもいい」
と言って、日本人の財産を敵の財産と呼んで堂々と分け合いました。
万一、日本が勝っていたら「自分は日本に最も協力した」と主張しているのであろう。
 
日本のお陰で朝鮮王朝の虐待から解放され、資本主義の工業国に発展し、高い生活水準を享受されたのです。
 
韓国人は「李氏朝鮮の時代は立派な社会であり静かで平和な国家であった。朝鮮王朝が続いていたら今頃もっとよい国となっていた」と教えられます。だから韓国人は本当の歴史を知らないのです。
 
実際には朝鮮というのは奴隷社会であり、人口の30%は奴婢でした。
奴隷はモノのように売買され、死ぬまで主人に奉仕しなければならなかったのです。
 
当時、農民などの人々を奴隷のように使い、利権でよい思いをしていた両班など支配層が日本の統治で追いやられ、うまみがなくなり日本を恨むようになりました。
しかし日本の統治で農民たちは奴隷から解放され、国も大いに発展しました。
日本に追いやられ不満を持っていた連中が当時「独立」だと言っては、隅のほうでテロまがいなことをして反発していたのが、戦後出来た韓国の主流となったため、かつての李王朝はよかったのに日本のせいでおかしくなったと自分たちの悪政や奴隷社会を棚に置いているのです。
搾取しまくってあやしい祈祷師にはまって財政破たんさせた閔妃を明成皇后などと尊称し、
日本へ抵抗したテロ活動家たちを義士と賞しているのです。
 
日本の統治時代を知る韓国人はこう言う。
「あの時代を懐かしむ人たちが多い」
「今よりあの頃の方がよかったと思わないか。生きる楽しみもあって」
 
こういう声を上げられなかった韓国という国。
こういう声を放送しない日本の公共放送。
 
嘘の歴史は必ず行き詰るものです。

転載元転載元: さくらの花びらの「日本人よ、誇りを持とう」

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米百俵のお話

米百俵のお話
3月17日の記事を少し手直しして再掲載いたします。
 
以前小泉総理が話していた越後長岡藩の実話です。
 
ついに、本日子供手当て法案が衆議院を通過いたしました。
このまま、参議院も通過するでしょうから、成立となるでしょう。

何故に民主党の国会議員は、国家百年の計という観点からものごとを考えられないのでしょう。
参議院選を目当てに数ヶ月先のことしか考えていません。
 
越後長岡藩には米百俵という話があります。戊辰戦争の時戦争に負け、武士が食うに困ったとき支藩の三根山藩から米百俵が届けられた時家老の小林虎三郎が子弟の教育のためその米を使うべきと唱え、食べるものも削って教育に当てたという話である。

その成果が山本五十六などの秀才を生んだといわれています。

親に金をばらまき、まともな親と子が育つと思っているのであろうか?

世も末である。
 
以下に米百俵の由来を長岡市のホームページから紹介する。

幕末維新の風雲は、戊辰戦争で長岡城下にも及んだ。長岡藩は、軍事総督・河井継之助の指揮のもと、奥羽越列藩同盟に加盟し、新政府軍と徹底的な戦闘を行った。このことは、司馬遼太郎の歴史小説「峠」で広く紹介されている。その結果、250年あまりをかけて築き上げた城下町長岡は焼け野原となり、石高は7万4千石から2万4千石に減らされた。

幕末に江戸遊学をし、佐久間象山の門下生であった虎三郎は、独自の世界観を持ち、「興学私議」という教育論を著していた。戊辰戦争の開戦に際しては、長岡藩が参戦することに反対の立場をとっていた。
 
敗戦後、文武総督に推挙された虎三郎は、見渡すかぎりの焼け野原のなかで、「時勢に遅れないよう、時代の要請にこたえられる学問や芸術を教え、すぐれた人材を育成しよう」という理想を掲げ、その実現に向けて動き出した。明治2年(1869)5月1日、戦火を免れた四郎丸村(現長岡市四郎丸)の昌福寺の本堂を借りて国漢学校を開校し、子どもたちに「素読」(論語などの読み方)を教えた。

翌年5月、長岡藩の窮状を知った三根山藩から米百俵が見舞いとして贈られてきた。藩士たちは、これで一息つけると喜んだ。食べるものにも事欠く藩士たちにとっては、のどから手が出るような米であった。

しかし、藩の大参事小林虎三郎は、この百俵の米は文武両道に必要な書籍、器具の購入にあてるとして米百俵を売却し、その代金を国漢学校の資金に注ぎ込んだ。
こうして、明治3年6月15日、国漢学校の新校舎が坂之上町(現大手通2丁目、大和デパート長岡店の位置)に開校した。
国漢学校には洋学局、医学局も設置され、さらに藩士の子弟だけでなく町民や農民の子どもも入学を許可された。
国漢学校では、小林虎三郎の教育方針が貫かれ、生徒一人一人の才能をのばし、情操を高める教育がなされた。
ここに長岡の近代教育の基礎が築かれ、後年、ここから新生日本を背負う多くの人物が輩出された。
 
東京帝国大学総長の小野塚喜平次、解剖学の医学博士の小金井良精、司法大臣の小原直、海軍の山本五十六元帥……。

この国漢学校は現市立阪之上小学校に引き継がれ、「米百俵」の精神は長岡市のまちづくりの指針や人材教育の理念となって今日に至っている。



 この国漢学校創立時の故事をもとに、文豪・故山本有三氏が戯曲として書き下ろしたのが<米百俵>である。
 
この戯曲は、虎三郎に関する詳細な研究と合わせて一冊の本にまとめられ、昭和18年(1943)に新潮社から出版された。

山本有三の戯曲<米百俵>の中で、虎三郎は「早く、米を分けろ」といきり立つ藩士たちに向かってこう語りかける。

「この米を、一日か二日で食いつぶしてあとに何が残るのだ。
国がおこるのも、ほろびるのも、まちが栄えるのも、衰えるのも、ことごとく人にある。……この百俵の米をもとにして、学校をたてたいのだ。
この百俵は、今でこそただの百俵だが、後年には一万俵になるか、百万俵になるか、はかりしれないものがある。
いや、米だわらなどでは、見つもれない尊いものになるのだ。
その日ぐらしでは、長岡は立ちあがれないぞ。あたらしい日本はうまれないぞ。……」

教育と反戦の思想で裏打ちされた戯曲<米百俵>は大ベストセラーとなったが、時代は軍部の支配下にあり、反戦戯曲だと強い弾圧を受けて絶版となり、自主回収の憂き目を見た。

それから約30年後の昭和50年(1975)、長岡市が<米百俵 小林虎三郎の思想>を復刻出版すると、大きな反響を呼んだ。また、昭和54年(1979)と平成13年の2度にわたり歌舞伎座で上演され、多くの人々に感銘を与えた。
米百俵が来る
 虎三郎が弟雄七郎にあてた手紙には、「長岡藩は極度に窮迫し、士族の中でも日に三度の粥すらすすることのできない者がいる」とある。
 こうした状況の中で、明治3年(1870)5月、長岡藩の支藩である三根山藩(現西蒲原郡巻町)の士族たちから長岡藩士族へ見舞いとして米百俵が贈られてきた。米百俵は当時の相場でおよそ金270両前後。そば一杯がおよそ24文、金1両は約10,000文であったので、いかに大きな贈り物であったかがわかる。


・小林虎三郎 (1828〜1877)
 文政11年(1828年)8月18日、長岡藩士小林又兵衛の三男として生まれる。崇徳館で学び、若くして助教を務める。23歳の時、藩命で江戸に遊学、兵学と洋学で有名な佐久間象山の門下に入り、長州の吉田寅次郎(松陰)とともに「象山門下の二虎」と称せられる。象山に「天下、国の政治を行う者は、吉田であるが、わが子を託して教育してもらう者は小林のみである。」と言わせるほど、虎三郎は教育者であった。
 教育の重要性を説く虎三郎の思想は、帰郷後に著した「興学私議」に詳しい。
 戊辰戦争に敗れ焼け野原となった長岡で、「国がおこるのも、まちが栄えるのも、ことごとく人にある。食えないからこそ、学校を建て、人物を養成するのだ。」と教育第一主義を唱え、三根山藩からの救援米百俵をもとに、国漢学校を設立し、多くの人材を育て上げた。
 虎三郎は明治4年、自ら「病翁」と名を改めているように、終生を病にさいなまれた。明治10年、湯治先の伊香保で熱病にかかり、8月24日に弟雄七郎宅で死去。享年50歳であった。
 
平成22年6月6日現在の長岡市です。
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