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政治に思うこと

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「いつ迎えに来てくれるの?」。
少年は母を待ち続けた。
だが、自分を愛してくれた人はもういない。
東日本大震災で両親を失った“震災孤児”の実態が見えてこない。
 
宮城県石巻市の市立小学校の避難所。
同小1年の少年は母親の迎えを待ち続けた。
少年の両親は車で避難する途中、津波にのまれて命を落とした。
学校にいた少年は難を逃れたが、両親が亡くなったことは知らされていなかった。
 
避難所には近所の住民も多く、親代わりを務めて一緒に遊んでくれたが、
避難所にいる親子連れをみると少年の目から涙がこぼれた。
泣きながら大人たちに聞いた。
「お母さんはいつ迎えに来てくれるの?」
地震から1週間ほどたったころ、
少年は一家の安否を心配して避難所を訪れた親族に引き取られた。
避難所を出るときまで、母親の迎えを待っていたという。
避難所で少年を見守り続けた男性は
「子供に必要なのは親や親族だった。自分たちの無力さを痛感した」と、声を震わせた。
330日 産経新聞)
 
・・・・・・ 
戦前の日本の学校では修身という道徳教育をしていました。
 
 
 
仁愛  瓜生岩子(うりゅういわこ)
 
東京浅草の観音にお参りすると、本堂に向かって左手の庭に、
やさしい笑いをたたえたおばあさんの銅像があります。
これこそ貧しい人や、みなし子の母と慕われた瓜生岩子の銅像です。
 
岩子は福島県の喜多方に生まれました。
早く父に死に別れ、続いて火事にあい、小さい時からいろいろと苦労をしました。
結婚してから、若松で呉服屋を始め、子供も生まれ、店もおいおい繁盛して、
やっと暮らしがらくになったころ、夫が重い病気にかかって、
七年の長わずらいののちに死にました。
岩子はそれから店を人にゆずって、喜多方へ引っ越しました。
たび重なる不幸にあっても、岩子はそのため世をはかなむようなことはなく、
かえって同じような不幸な人に対する思いやりの心を深くしました。
 
喜多方へ引っ越してまもなく戊辰の役が起こり、若松は戦争のちまたとなりました。
岩子は「どんなときにも、女には女の仕事がある」といって、
銃火の中をくぐって、負傷者の介抱や、炊き出しなどに、
かいがいしく立ち働きました。
このとき、会津藩士の家族は、多く喜多方の方面へのがれてきましたが、
泊まる家もなく、飢えと寒さに苦しんでいました。
岩子は見るに見かねて、わが家に連れ帰り、
また近所の家や付近の農家にたのんで、泊まらせることにしました。
そうして、これらの人に、着物や食べ物などをととのえてやり、
病気の者には、自ら薬を煎じて与え、老人をなぐさめ、おさない者をいたわり、
働ける者のためには、仕事をさがしてやるなど、わが身を忘れて世話をしました。
 
とりわけ、岩子があわれに思ったのは、父兄を失ってたよる人もない子どもたちのことでした。
さぞかし名のある武士の子であろうに、武士らしいしつけも受けず、
毎日遊び暮らしているのを見て、岩子はその行く末を案じました。
そこでよい先生をたのみ、ささやかな学校を開き、古机・古本・古すずりなどをもらい受けて、
勉強ができるだけの用意をし、九歳から十三歳までの子供を集めて、
読み・書き・そろばんを学ばせました。
このとき集まった子供は五十人ばかりありましたが、
岩子はその親ともなって、親切にみちびきました。
 
明治五年に初めて小学校ができたので、岩子の学校は閉じられることとなりました。
岩子は、それから世の貧しい人を助け、みなし子を育てることに全力をつくしました。
その行いが世間に広まり、お上から何度もほうびをいただきました。
ついで養育院が初めて東京にできたときには、その最初の幼童世話係長に選ばれました。
(国民学校修身教科書 初等科)
 
 
 
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転載元転載元: さくらの花びらの「日本人よ、誇りを持とう」

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東日本大震災による東京電力福島第1原発の放射性物質(放射能)漏れ事故を受け、
政府の指示を超えて自主避難が広がるなか、生活保護を受ける外国人が日本人との間に生まれた子供を置き去りにして帰国するケースが相次いでいることが分かった。(326日 産経新聞)
 
逃げて帰る国がある人間に参政権など必要あるまい。
このような腹の立つニュースがある一方で、国柄を感じる記事を327日の産経新聞にみました。
 
・・・天皇、皇后両陛下が、大震災の後に「自主停電」されているという話にも鼻のあたりがツーンときた。15日から「第1グループ」の計画停電の時間に合わせ皇居・御所の電気を切っておられる。
実際に停電にならない日も、予定通り続けておられるそうだ。
天皇陛下は77歳のご高齢である。以前には前立腺がんの手術も受けられた。
それなのに「寒いのは(服を)着れば大丈夫」と、その間は暖房も使われない。
ろうそくや懐中電灯を使いながら、暗い中で夕食をとられたこともあるという。
それほどまで国民に思いをはせておられる。
そのことを知れば、被災地で苦難の生活を強いられたり原発の修復にあたったりしている人々に
これ以上にない励ましとなるだろう。身勝手な買いだめなど決してできないはずだ。
・・・
 
天皇陛下は国民に「仁」の心を持つ伝統があります。
日本書紀には初代天皇とされる神武天皇が「民」を「おおみたから」と呼んだことが記されています。
神武天皇にとって国民は皇祖・天照大神から託された大切な宝物です。
そして、神武天皇は日本を建国するに当たり「国民を大切にすることを統治の根本」としました。
このことは、その後の天皇陛下にも受け継がれています。
 
最も有名なのは第16仁徳天皇です。
即位されて4年目、国民のかまどから炊事の煙が立たず、
多くの国民が貧しい生活をしていることに気づくと3年間年貢などを免除し、
仁徳天皇自らも着物や履物が破れてもそのままにし、宮殿も荒れ果てたままにしていました。
3年後、高台に立って国民の炊事の煙があちこちに上がっているのを見て、
「自分は、すでに富んだ」と喜んだと伝えられます。
 
平安時代の第60代醍醐天皇。
醍醐天皇は国民に対する同情心が強く、寒い夜に自分から着物を脱いで
貧しい国民たちの寒さとともに過ごしていました。
醍醐天皇は疾病や不順な天候の時は大赦したり税を免じたりしました。
収穫の良くない年は重陽節(ちょうようのせち)を何度もやめています。
これは国民への負担の軽減を願ったものです。
また、旱魃の時には一般民に冷泉院の池の水を汲むことを許し、
そこの水がなくなるとさらに神泉院の水も汲ませ、ここの水もなくなったといいます。
鴨川の洪水などがあれば水害を蒙った民に助けの手を差し伸べ年貢や労役を免除しました。
醍醐天皇は、
「自分は租税によって着物を着ている。自分は年貢によって食べている。
それなのに民の方は足りなくて自分の方が余っている。これはよろしくない」
そして、醍醐天皇はこのような政令を出しました。
「旱魃があったら年貢を免じてやりなさい。水害の時は租税を免除しなさい。
兵士となった家は租税の対象外にしなさい。
疾病が流行した時は租税を取り立てないようにしなさい」
 
昭和天皇は戦時中の昭和19年の暮れから防空施設として作られた御文庫に居住しました。
そこは屋根には砂が盛られ湿っぽく居住性の極めて悪いところでした。
昭和天皇は戦後になってもそこに住み続けました。
何度か新しい御所を作ることを進言申し上げても昭和天皇は、
「国民はまだ住居がゆきわたっていないようだ」とおっしゃって断り続けました。
その後、国民の生活水準が戦前をはるかに上回り、
空前の神武景気も過ぎた昭和36年に昭和天皇は吹上御所に移りました。
新宮殿が創建されたのはそれよりさらに遅れて昭和43年のことでした。
 
昭和天皇はこのようなお言葉を残されています。
「もっとも大切なことは天皇と国民の結びつきであり、
それは社会が変わっていってもいきいきと保っていかなければならない。・・・
昔から国民の信頼によって万世一系を保ってきたのであり、
皇室もまた国民を我が子と考えられてきました。それが皇室の伝統であります」
・・・
 
他の国では国王や皇帝は自分の権力を求め、国を支配し、国民から搾取する。
それゆえ恨みを抱いたものが政権を奪い、新たな王朝を立てるということを繰り返してきました。
 
それに対し我が国では建国の理想のもとに天皇陛下が国民をわが子のようにいつくしみ、
国民に思いやりを持ってまつりごとを行ってきました。
国民はこうした天皇陛下の御心(みこころ)に応え、天皇陛下を我が親のようにしたい、
天皇陛下を中心として国民が家族のように結び合って生活してきました。
だからこそ神話の時代から今日まで一系の皇室が125代も続いているのです。
 
このように我が国では家庭にあっては親は子供を愛情を持って育て、
子どもは親が年を取って弱っても大切にする。
夫婦は男女の特長を認め合い欠点を補い合って和を心がける。
また祖先を大切に祀り、子孫の幸福や繁栄を願う。
このような家庭が寄り集まって一つの国をなしているのです。
社会にあっては人々が助け合い共存共栄を心がける。
海外の文化も積極的に取り入れて固有のものと調和させてしまう。
その要に皇室があり、国民は皇室を中心として団結して生活する。
これが日本のもともとの姿であり、
これこそ日本人が世界に誇ることのできる国柄であり、
その心といえるのではないでしょうか。
 
 

転載元転載元: さくらの花びらの「日本人よ、誇りを持とう」

敷島の大和心の・・・

阪神淡路大震災の時に日本で救援活動を行ってくれた国にポーランドがありました。
かつてポーランドは、ロシア、プロシア、オーストリアに分割され、
国土を失ったポーランド人がシベリアに送られました。
その後、ベルサイユ条約でポーランドが独立しても祖国へは帰れませんでした。
そのポーランド孤児を救出したのが日赤と日本陸軍兵士たちだったのです。
 
関東大震災では日本に対してベルギーが当時の大国である米・英に次ぐ支援をしてくれました。
これはかつて、ドイツがフランス侵攻のために永世中立国のベルギーを通過して
ベルギーを占領した時、そのベルギーを支援したのが日本だったからです。
 
そして、今回の東日本大震災。
外務省は323日に、被災地に向けた海外からの支援と要員派遣を発表しました。
多くの国が撤退している中、尚も活動を続けてくれている国があります。
そのひとつはトルコです。
 
 
こうしてみると歴史の絆というのは国難の時にこそ現れてくるものであり、
知るべき歴史を国民が教わるか教わらないか、知るか知らないか、が
いかに大切であるか思い知らされます。
 
今回の大地震で被災した福島原発は廃炉するような設計上の耐用年数を過ぎた炉でした。
それでもこの炉は地震に耐え、想定以上の津波でも炉は破損しませんでした。
 
政府の原子力安全委員会が2006年に改定した新耐震指針に基づいて、
原発の津波に対する安全性を再評価している最中に、今回の東日本大震災が起きました。
しかし、たとえ津波に対する再評価が間に合っていたとしても、
今回の高さ14mと推定される大津波は防げなかったかもしれません。
それは政府が四つ以上の震源域が連動して動くような巨大地震を想定するはずはないからです。
 
民主党政権の事業仕訳では、
200年に一度の地震に備えてお金を使う必要があるんですか?」と言いました。
 
これによって小中学校の耐震強化が削減され、
都市の運輸を支える高速道路の耐震化も取りやめになり、
災害対策予備費も削られました。
避難所は学校の体育館が多いですから耐震強化こそ必要なはずです。
 
今回の震災は民主党の、公共事業を目の敵のようにした「無駄」「経済効果がない」と言って
縮減に縮減を重ねた「コンクリートから人へ」の転換が、
結局は地震大国日本の巨大地震によって人の命が危険にさらされることを、
命が大事なはずの民主党が全く理解していなかったことを露呈しました。
 
公共事業に関していえば耐震ばかりではなく、
「橋」も50年という寿命に差し掛かった危険な状態の橋が多くなり、
過去、アメリカで50年を経過した橋が次々と崩壊したのと同じことが日本で起きるのは必然です。
これは無駄とか経済効果ではなく、
人命と物流麻痺による経済的損失も相当な数になることが危惧されます。・・・
 
さて、今なお福島原発は予断を許さない状況です。
そのような中でトルコのユルドゥズ・エネルギー相は
トルコの2カ所の原子力発電所の建設計画について、
1カ所は日本との技術協力で進める予定で東京電力と東芝に協議をするという。
トルコには断層帯が通っており、地震も活発で1999年の2回の地震では死者数が2万人を超えました。
エネルギー相はテレビ番組で
「日本の今回の地震はトルコの計画に影響しない。
今回の事態からの教訓を踏まえ、協議を継続する」と述べました。
 
こういう国難の時に日本を信頼してくれているトルコという国。
我々はこういう友好国のためにも頑張らねばなりません。
 
そして、今こそ明治天皇のこの御製を心に刻みたい。
 
しきしまの大和心のををしさは ことある時ぞあらわれにける
大和心の勇ましさは、この国に一大事が起こった時に現れる
 
 
 

転載元転載元: さくらの花びらの「日本人よ、誇りを持とう」

NHKスペシャル「日本はなぜ戦争へと向かったのか」の4回シリーズの最終回、
 “開戦・リーダーたちの迷走”をやっていました。
1941年に焦点を充てて日本の決断できない結果が開戦となった、というものです。・・・
 
番組はこう切り出しました。 
「今から70年前の1941年、
日本はアメリカとの破局的な戦争「太平洋戦争」へと向かいました。
当時のリーダーはアメリカとの圧倒的に国力差という現実を無視して
開戦に突き進んだと考えられてきました。
しかし事態はもっと複雑でした。・・・」
 
「現実を無視した」と思っていたら「事態はもっと複雑でした」というNHK.
「日本は好戦的で、戦争こそ命」とでも本気で思っていたようです。
どれほど馬鹿でも「現実を無視して開戦に突き進む」わけがあるまい。
 
「国家の指導者たちはなぜ不利と承知の戦争を避けられなかったのか、
これは開戦前半年前の衝撃的な記録です。
・・・・今回、取材をしてみてわかったことは、
この段階で日本はアメリカと戦争をしなくてはいけないんだ、というふうに
本気で思っていたリーダーたちはいなかったということです。
では皆さん、なぜ、日本は戦争へと向かっていってしまったのでしょうか。・・・」
 
その後、番組で強調したのは、
「日本が大東亜戦争に突入したのは首相や閣僚たちが迷走して決断できないからだ」
ということでした。そのために番組で繰り返し使う言葉は「先送り」でした。
 
194172日、
「南進、北進、どれかに絞ることなく全て進めるというその場的プランでした。
しかも具体的なことは状況を見て別に定める、
つまり何も決めず準備だけするという実質様子見、先送りでした」
 
これは624日の大本営が策定した「情勢の推移に伴う帝国国策要綱」の、
「支那事変処理に邁進し、自存自衛のために南進し、独ソ戦が帝国に有利となれば武力で
北辺の安定を期す」という三面作戦を打ち立てたもので、
これを元に72日に御前会議で「独ソ開戦に伴う新情勢に対応する国策決定」としたものです。
南部仏印進駐し、北方は日本に有利となるまで待つことでした
 
93日、
陸・海軍の共同提案を議する連絡会議で「帝国国策遂行要領」を決定しましたが、
「外交交渉で10月上旬にも我が要求のめどなき場合にはただちに対米開戦を決意し、
10月下旬に戦争準備を完成する」としたこれも「先送り」と言いました。
 
また、近衛首相から東條首相となって、陛下から
「国策の大本を決定するには96日の御前会議にとらわれることなく内外情勢を検討して慎重に」
という「白紙還元の御諚」を伝達されて、日本が譲れる最後の線として121日まで外交交渉すると
決めたことも「またも先送り」したと言う。
 
戦争を避けるため最後の最後まで外交交渉をしようと期限を決めたことを「先送り」というNHK
NHKは外交交渉で先送りせずに「戦争はしない」と決断すればいいと言わんばかりでした。
 
「本音では戦争を避けたいリーダーたち。しかし多くの恨みを買うその決断を誰が言い出すのか・・・」
と松平定知キャスターは言う。 
さらにこのようにも言いました。
「日本の緊急時、非常時に当たってリーダーたちは何一つ具体的な方策を決められないでいました。
ああいう意見がある、こういう意見がある、そういう意見もある。いっぱいある意見を一つに一本化出来ずに様子を見ているうちに全面禁油が現実のものになっていったのでございます。
日本に残された石油の備蓄は2年あるかないか。国家の機能が停止するのは時間の問題です。
・・・事ここに至ってですね、リーダーたちは選択肢は二つしかありませんでした。
一つは中国からの撤兵をのむ「対米譲歩」、もうひとつは南方の資源を「独自調達」する。
この二つしかなかった。
しかし前者は国内、後者は英米の反発が必至である。まさに進退極まれりと言うところです。
もうこれまでのように結論をぼやかしたり先送りしたりすることは許されません。
今度こそ国家の大局に立って決断を思いきらなければならない。
しかし皆さん、リーダーにとって決断はさらに困難さを増していくのでございます」・・・
 
三田村武夫氏は「戦争と共産主義」でこのように書いています。
 
昭和184月のある日、
筆者が荻外荘に近衛公を訪ね、戦局、政局の諸問題に尽き率直な意見を述べて懇談した際、
「この戦争は必ず負ける。そして敗戦の次に来るものは共産主義革命だ。
日本をこんな状態に追い込んできた公爵の責任は重大だ」と言ったところ、
彼はめずらしくしみじみとした調子で、第一次、第二次近衛内閣当時のことを回想して、
「なにもかも自分の考えていたことと逆な結果になってしまった。ことここに至って静かに考えてみると、何者か目に見えない力にあやつられていたような気がする」と述懐したことがある。
 
彼はこの経験と反省を昭和20214日、天皇陛下に提出した上奏文の中で
「・・・満州事変、日華事変を起こし、これを拡大してついに大東亜戦争にまで導き来れるは
これ等軍部内の意識的計画なりしこと、いまや明瞭なりと存じ候。
・・・不肖はこの間、二度までも組閣の大命を拝したるが、国内の相剋、摩擦を避けんがため、
出来るだけこれら革新論者の主張を容れて挙国一致の実を挙げんと焦慮せるの結果、
彼らの背後に潜める意図を十分に看取する能はざりしは、全く不明の致すところにして何としても申し訳なくこれ深く責任を感じる次第に御座候」と言っている。
 
つまり近衛は過去十年間、日本政治の最高責任者として、軍部、官僚、右翼、左翼の多方面にわたって交友を持ってきた自分が、静かに反省して到達した結論は、
「軍部、官僚の共産主義的革新論とこれを背後よりあやつった左翼分子の暗躍によって、
日本は今や共産革命に向かって急速度に進行しつあり、この軍部、官僚の革新論の背後に潜める共産主義革命への意図を十分看取することのできなかったのは自分の不明の致すところだ」と言うのである。
 
NHKが思っているほど、首相も閣僚も軍人も国民も誰もが戦争はしたくないに決まっています。
しかし、ユダヤの日支闘争計画、コミンテルン会議、ヨセミテの太平洋問題調査会国際会議などで
日本の戦争は仕組まれていたのです。
 
資源のない日本の選択肢は戦うか、戦わずして資源を枯渇されて植民地にされるかでした。
さらにこの状況で的確に判断しようとしても内閣の中に、官僚に、軍部に、マスコミに
コミンテルンの手先が日本を戦争させるために様々な工作を行っていました。
こういうことをNHKは言わない。
・・・・・・
 
番組では結構な時間を使って近衛首相をコケにしていたNHK。
近衛は陛下やマッカーサーに鋭く左翼や共産主義者の脅威を指摘していたため 、
GHQや左翼に目をつけられていました。
それが戦後、近衛の評価がよくない一因でもあります。
それに比べて番組で出てきた内大臣の木戸幸一。
木戸のしてきたことは一切触れなかったのでここで触れておきます。
東條を首相にしたのは木戸でしたが、この木戸のやってきたことはひどいものでした。
 
陛下に上奏するために参内する者は全て内大臣の木戸を通さねば出来なかったため、
陛下への情報が偏っていました。
 
その木戸幸一の弟は和田小六で、和田の娘の夫が都留重人でした。
自宅が空襲に遭っていた木戸幸一は都留や和田と同居していました。
 
都留重人は学生の時に反帝同盟というコミンテルン組織に入り、治安維持法で逮捕され、
日本の大学には進学出来なくなりハーバード大学に留学しました。
当時のハーバードはコミンテルンの巣のようなところで、
コミンテルンのハーバード・ノーマンと知り合いアメリカ共産党に入りました。
都留はコミンテルンであるスメドレーの親友の石垣綾子らと米国各地で反日活動を行っていました。
 
戦後、ノーマンが日本の専門家としてマッカーサーと共に日本にやって来て、
ノーマンがまずやったことは「マッカーサー指令」により16名の共産党員を府中刑務所から釈放し、
それから近衛と木戸の戦争責任の意見書を作ることでした。
この時、ノーマンは都留と再会し、都留の情報で近衛の「戦争責任に関する覚書」を作成します。
近衛を貶めたのはこの「ノーマン覚書」でした。
 
木戸のことは「内大臣の役割は軽く、陛下の御前に出るのも月一回くらいである」と、
木戸の責任は故意に小さくし、木戸も自分のことを権限が軽かったと主張していました。
 
しかし、実際は木戸になってから内大臣の権限は大きくなり、戦時中の首相選定にまで口を出し、
東條内閣の時には木戸が重臣たちと陛下の拝謁を妨げてきました。
五摂家の近衛でさえも陛下と3年間拝謁できない状況でした。
 
岩淵辰雄は雑誌「新生」で次のように書いています。
「戦争という国家の大事が、わずかに総理大臣としての東條と、内大臣としての木戸と、
この二人の専断によって推し進められ決定されていたという結論を生みだす。
木戸内大臣は何等の責任も負うべきものがないと考えているのだろうか」
 
ハーバード大学で都留と同僚でコミンテルン人脈であったポール・バランは、
占領軍を代表して誰を戦犯とするかという「戦犯調書」を取った人物で、
近衛を東京湾の軍艦に連れ込んで「お前は絶対死刑になる」と脅して自殺に追い込みました。
その後、近衛は自殺して、木戸は天寿を全うしたのです。
・・・
 
番組の最後に松平キャスターはこう締めくくりました。
「大事なことは多くの皆さん方が、戦争というものは愚かなものだということに気づいていながら、
しかし、戦争の道をとってしまったという事実の重さでございます。
いや、あれはあの一時期の狂気のせいだ、ということだけで片付けてしまうわけにはいきません。
日本の内外におびただしい数の犠牲者が出ました。
この多くの犠牲者になった方々のことを思う時に私達は少なくとも、なぜ私達はあの戦争への道を
選んだのかというとこを考えることを止めてはいかんのだ、というふうに思います」
 
本当にそう思うならばNHKは肝心なことに触れないフィクションのような番組作りはやめるべきでしょう。
その巨大組織NHKはどうだろう。
NHKは不祥事を起こした職員を関連会社などで採用したり、
受信料を職員が着服して使っていたり退職者の企業年金の一部に補填していたこともありました。
報道の内容も自虐史観に基づいた反日報道で、公共放送としてふさわしくありません。
このようなNHKを放送法で保護する必要があるのでしょうか。
また福地茂雄会長の任期満了による前代未聞のドタバタ劇でNHK次期会長を受諾していた安西氏は
「一貫した姿勢を全く持たない経営委では会長に就任してもNHKをよくするのは困難だ」
と言い切りました。
 
NHKのリーダーたちは腐敗したNHKを本気で建て直す気があるのでしょうか。 
国民から受信料を払わせているのですから先送りは許されません。
現実を無視して偏向に突き進んだNHKの改革は、少しは進んでいると思っていました。
しかし事態はもっと複雑のようです。・・
 
 
 

転載元転載元: さくらの花びらの「日本人よ、誇りを持とう」

学校で教えない歴史 10 日本を陥れたもの 序章
 
 
・・・
悪夢の十五年。
満州事変から敗戦まで、我々の日本はまるで熱病にでもつかれた如く、
軍国調一色に塗りつぶされてきた。
思えば、軍歌と、日の丸の旗と、万歳の声で埋めつくされた戦争狂騒曲の連鎖であったが、
この熱病の根源は果たして何であったろうか。
そしてまた戦争狂騒曲の作者は誰であっただろうか。
 
今日の一般常識は、軍部だ、軍閥だ、ということになっている。
しかしながら、この軍閥の演じた戦争劇は、果たして、
真実彼らの自作自演であっただろうか。
 
熱病の疾患部は、確かに軍部であったし、
戦争狂騒曲のタクトを振り「無謀な戦争劇」を実演したのも確かに軍部であったが、
その病原菌は何であったか、また作詞、作曲者は誰か、脚本を書いたのは誰か、
という問題になると、いまだ何人も権威ある結論を出していない。
これは極めて重大な問題だ。
 
尾崎・ゾルゲ事件、企画院事件の内容、昭和研究会の性格などが、
なぜ、今日まで世間に知られていなかったかという点である。
共産党関係の事件の如き、こと国体問題及至は皇室に関係ある事件は、
一般に及ぼす思想的影響を恐れて世間に公表しない建前になっていたのだ。
顧みて言えば、このため一般国民は、
自らの運命に重大な関係を有する重要問題の前に立ちながら、
目かくしをされて、問題の本質を知る機会すら与えられなかったのである。・・・・。
 
このように書いたのは三田村武夫氏でありました。
氏は昭和36月から71月まで内務省警保局に勤務し、
共産主義活動を精密に調査研究する事務に携わってきました。
昭和710月から106月まで拓務省管理局で朝鮮、満州、支那の
国際共産党の活動に関し表裏両面の調査研究に没頭し、
昭和112月に衆議院議員となり、
爾来10年間、戦時運動に身を投じて、共産主義運動の世界革命を注視し研究してきました。
 
氏の著書「戦争と共産主義」に岸信介氏がこのように書いています。
「読むほどに、私は、思わず、ウーンと唸ることしばしばであった。
支那事変を長期化させ、日支和平の芽をつぶし、
日本をして対ソ戦略から対米英仏蘭の南進戦略に転換させて、
遂に大東亜戦争を引き起こさせた張本人はソ連のスターリンが指導するコミンテルンであり、
日本国内で巧妙にこれを誘導したのが、共産主義者尾崎秀実であった、ということが
実に赤裸々に描写されているではないか。
 
近衛文麿、東條英機の両首相をはじめ、この私まで含めて、
支那事変から大東亜戦争を指導した我々は、言うなれば
スターリンと尾崎に踊らされた操り人形だったということになる。
私は東京裁判でA級戦犯として戦争責任を追及されたが、
今思うに、東京裁判の被告席に座るべき真の戦争犯罪人はスターリンでなければならない。
しかるに、このスターリンの部下が東京裁判の検事となり判事を務めたのだから、
まことに茶番というほかない。・・・」
 
この「戦争と共産主義」は昭和25年に発売されましたが、
当時は占領中でありGHQ民政局ではアメリカの共産主義者が主導権を握っており、
検閲官によってこの本は発売禁止になりました。
その後もこのような真実の本が消されて偏向した本ばかりがどんどん出回る日本。
この本やヴェノナ、尾崎やゾルゲの手記、その他の書籍を元に、
彼らのやってきた一端だけでも書いてみたいと思います。
・・・
 
192612月に第二次日本共産党が結成されました。
27年テーゼによって、
「ブルジョア政府を倒してプリレタリア共産党政権を樹立せよ」
と労農革命戦術を行います。
労働農民党、日本労働組合評議会、全日本無産青年同盟の三団体は
破壊と非合法の暴力革命闘争を行い、
資本主義崩壊と天皇制打倒の革命闘争を行います。・・・
 
当時の社会情勢は、
まさに経済恐慌であり、世界は不景気となり、
日本も年々不景気となっていきました。
米価は下がり、農家の負債がどんどん増え続け、
ついに農家は田畑を売り、首をつるもの、親子心中する者などが多くなっていきました。
 
また、都市でも倒産者が相次ぎ、失業者があふれ、
資本家は労働者の首切りや工場閉鎖を強行していきました。
これに対抗するため、労働者の組織的闘争が急激に増えはじめ、
「資本主義制度はもはや末期症状だ」
と言われはじめ、社会主義運動に拍車がかかっていきました。
 
1928315日、
内務省は共産党関係を一斉検挙しました。
これにより530人が収容され、5000人以上が取り調べを受けました。
労働農民党、日本労働組合評議会、全日本無産青年同盟の三団体は
内務大臣より結社禁止処分を受けました。
 
この事件は当時の新聞で大々的に報じられ、
「天皇様の噂をしただけで不敬罪になる」
「天子様をじかに拝むと目がつぶれる」
と思っていた一般国民は、
天皇陛下を倒して共産党の天下にしようと企てていたものが日本に
何千人もいたことを知って驚き日本社会に一大衝撃を与えました。
これが、いわゆる三・一五事件であります。
 
この三・一五事件があった同じ年、
モスクワで「第六回コミンテルン会議」が開催されました。
 
その中で資本主義国家同士の戦争に反対するのではなく、奨励推進し、
しかもその国の政府の敗北を助成し、
ブルジョア政府とその軍隊を自己崩壊に導き、戦争を通じてプロレタリアート革命を遂行する。
「資本主義戦争を敗戦革命へ」の戦略コースを巧妙に実践せよという、
レーニンとコミンテルンの敗戦革命への戦略戦術論が日本の軍部と政府に巧妙に適用されました。
 
これはどういうことかというと、
コミンテルンの究極目標は全世界で共産主義革命を完成させることでした。
そのために資本主義の支柱である米・英・日・独の強大国を倒さねばならない。
倒すにはその国の共産勢力を強化して革命を起こし内部から崩壊させること、
外部から武力で叩きつぶすことでした。
 
しかし、これらの国では共産党の力が弱く革命は成功しない。
また外部武力で叩きつぶす力がコミンテルンにはなかった。
ならば資本主義国家同士二つの陣営に分かれて大戦争をやればどちらかが負け、
戦時中の消耗で経済も弱まり資本主義体制が弱体する。
このための第二次世界大戦が好ましい。
 
まずヨーロッパではドイツが邪魔でありました。
ドイツと英・仏を対立させ米国を戦争に引き込む。
ドイツとイギリスのどちらが負けても欧州の地図は一変し混乱するはずである。
 
また、極東で邪魔なのは日本と米・英をバックにした蒋介石である。
そこで日本と蒋介石を戦わせる。
すると背後にある米・英は必ず乗り出してくる。
そうすれば支那と南方植民地を舞台に戦いが起き、
日本が敗北する寸前に我がソ連が兵を進めてその止めを刺す。
日本と蒋介石が崩壊し後には中国共産党が残る。・・・
 
1928年の段階でこのような方針で謀略を立てていきました。
日本と支那を戦わせることは1918年のユダヤ人による日支闘争計画にもありました。
 
そして、実際に支那事変が起きたのは1937年、大東亜戦争は1941年です。
 
 

転載元転載元: さくらの花びらの「日本人よ、誇りを持とう」


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