さむらい行政書士 庭山行政書士事務所

新潟県の建設企業の活性化 !そのお手伝いをしたい!

政治に思うこと

[ リスト | 詳細 ]

記事検索
検索

学び続けること

 
 
毎月、4歳の子どもから参加する「論語勉強会」を開催している瀬戸謙介さんはこう書いています。
「私は論語の勉強会を通して、今の日本人が忘れかけた、ご先祖様が大切に伝えてきた
日本人としての道徳や倫理観をもう一度家庭によみがえらせ、日本人全体がそれを共有したならば、
今起きているような事件はほとんどなくなるものと確信しています。
 
長い歴史の中で作り上げてきた日本人の道徳や倫理観という生活規範だけでなく、
人間として立派に生きていくには何が大切なことなのかという生き方に関わる日本人の心を
伝えなくなったがために、今や学校や家庭における教育の荒廃は目を覆いたくなるばかりです。
 
勉強会に来る子供達が論語を声に出して唱和するうちに、
心躍り、高尚な人間になったような気分になり、
学問に対して興味がわいてきているのが一目でわかります。
そして、人として生きる道、徳を説いた言葉に触れることで、
背筋がしゃんと伸び、それを学び続けることで心の中に芯が生まれてくるのです。・・・」
・・・・・・・・・・
 
 
[子いわく、知者は惑わず、仁者は憂えず、勇者は懼れず]
 
まず「知者は惑わず」とありますが、知者とはどういう人でしょう?
これは一生懸命にいろんな勉強をしていて、たくさんの知識がある博学な人をいいます。
ただし、博学なだけでは知者とは言えません。
何でも知っているだけなら、単なる物知りです。
知者とは、知識をたくさん持っていて、それに加えて
正邪善悪の判断能力のある人でなくてはなりません。
善悪をピシっと区別できる人ですね。
 
そういう人は迷いません。
どんな出来事が起こっても、判断能力があるから、
「どっちに行こうか」「どうしたらいいか」と迷わないのです。
迷うとは心が乱れることだから、「知者は心が乱れない」と解釈してもいいでしょう。
いつも適切な判断を下せるということですね。
 
次に「仁者は憂えず」とあります。
仁者とはどういう人でしょう?
これは相手の痛みのわかる優しい心の持ち主のことを仁者というのです。
仏教でいう慈悲の心を持っている人、キリスト教で言う愛の精神を持っている人です。
 
では「憂い」というのはどういう意味でしょうか?
これは皆さんにはまだわかりにくいかもしれないけれど、思い悩む、心配する、心を痛める
というような意味です。思い悩んでくよくよすることですね。
たとえば、試験が出来なかったときとか、お母さんに怒られそうだと思ったときに、
みなさんは「どうしよう、どうしよう」とクヨクヨするのではないですか?
でも、仁者はそういう憂いがないから、いつも正々堂々としていられるんですね。
 
どうして仁者は憂えないかと言うと、自分のことに関して、常に心が空っぽだからです。
自分のことよりも人の幸せを常に願っているから、心の中に迷いとか憂いがないのです。
 
自分がこの立場になったら不利になるとか、
これをやると損するとか、自分のことばかり考えていると、
もし自分が少しでも不利な立場になったら心が動揺するでしょう。
失敗したらどうしよう、これを挽回するにはどうしたらいいだろうとね。
でも、そういう私利私欲が無くなれば、心の中に何も心配がなくなります。
だから仁者は憂えないといっているのです。
わかりますか?
 
それじゃあ、「勇者は懼れず」の勇者というのはどういう人のことでしょう?
これは簡単ですね。
勇気のある人を具体的に考えてみましょうか。
皆さんのクラスで、ちょっといじめられている子がいたときに、
その子を見捨てないで盾になって守ってやろうと頑張るような人がいたら、
その人は勇気ある人です。
心が強くて、物事に対して恐れずに、立ち向かっていく人。
そういう人を勇者といいます。
 
もうひとつは人間としての力量が優れていて、
何事にも堂々としていて動じない人も勇者と呼びます。
 
「懼れず」というのは、怖がらないことです。
恐怖感を感じない、ビクビクしない、すぐに逃げ出さないこと。
だから勇者というのは、どんなに強い相手が来ても、心で負けない人なんです。
力ある人、権力を持っている人の前に出た途端、
心が萎えて自分の言いたいことも言えなくなるような人は勇者とはいいません。
どんな状態でも、正しいことをはっきりと相手に告げることのできる人、
そういう人を勇者というのです。
ただの乱暴者は勇者とはいいません。
腕力がとても強くて、誰も勝てないような人がいたとしても、決して勇者とはいいません。
ここを間違わないようにしてください。
 
勇気の行動の中には、必ず正義がなければいけないのです
正義がなかったら勇気とはいわないのです。
それは単なる乱暴者です。
 
みんなは「匹夫の勇(ひっぷのゆう)」という言葉を聞いたことがありませんか?
匹夫というのは虫けらのこと。
だから「匹夫の勇」というのは、虫けらのような価値のない勇気をいいます。
ただ感情に任せて暴れるような人は、一見すごそうだけれど何も価値がない。
そういうのは、匹夫の勇といって蔑まれます。
だから、君たちが勇気をもって行動を起こすときには、
必ずその後ろに正義があるかどうかを自分の心に聞いて下さい。
正義がなければだめですよ。
 
世間では、大きい声で自分のことを主張する人、
一見正しそうなことをいってみんなを動揺させて誘導しようとする人がたくさんいます。
そういう人間に限って、自分が不利になるとスッと姿を消してしまうものです。
そういう人間の本質を見極めるために、君たちは知者にならなければいけないのです。
 
この「知、仁、勇」の一つ一つは独立しているわけではなくて、
それぞれがつながっているものです。
すごく大切な言葉だから、ぜひ覚えておいてください。
 
「子いわく、知者は惑わず、仁者は憂えず、勇者は懼れず」
 
 
*参考:瀬戸謙介 「子供が喜ぶ論語」

転載元転載元: さくらの花びらの「日本人よ、誇りを持とう」

戦わずに勝つ方法はあったか。
イメージ 1

  昭和16年11月26日、「ハル・ノート」と呼ばれる米国の最後通牒が突きつけられました。8ヶ月にわたって日米交渉を行ってきて、米国は譲歩もせず、さらに厳しい要求を突きつけてきたのです。

東郷外相「目もくらむばかりの失望に打たれた」

  これは米国でも非難があり、セオボルト海軍少将は「まさしくハル・ノートは日本を鉄棒で殴りつけた挑発だった」と述べ、グルー駐日大使も「このとき、開戦のボタンは押されたのである」と述べています。フィッシュ議員は真珠湾攻撃のときにルーズベルト大統領のもとに団結して、祖国の危機に立ち上がろう、という演説をしましたが、ハル・ノートの内容を知り「私はルーズベルトが日本に恥ずべき最後通牒を送って、日本の指導者に開戦を強要したことを知った。わたしはわたしの演説を恥ずかしく思っている」と言っています。

  ハル・ノートには「重慶政府(蒋介石の政府)以外は支那におけるどのような政府または政権も支持してはならない」という提案があります。日本は満州からも追い出されるということです。日本は陸軍の暗号解読能力が高かったので暗号の解読が進んでおり、ルーズベルトと蒋介石が満州から日本を追い出そうとしていることを知っていました。大陸から追い出されたら日本はABCD包囲の中、大量の餓死者を出すしかありません。石油も簡単には売らないでしょう。石油がなければ軍艦も飛行機も動きません。軍事力が背景になければ外交は米英の言いなりになるしかありません。

  ハル・ノートを受け入れて座して死ぬくらいなら戦うという道を日本は選びました。本当に戦うしか道はなかったのか?

  上智大学名誉教授の渡部昇一氏は「当時の外交責任者たちは、アメリカという国の本質が分からずに日米交渉をやったのではないか」と述べています。日本の外交はルーズベルト大統領やハル長官といったアメリカ政府を相手に交渉しています。しかし、アメリカという国は農村社会でいう「皆の衆」の存在が大きい。ようするに大統領というのは人気商売ということです。ルーズベルト大統領は「在任中に戦争を始めない」と公約して当選した人です。だから「皆の衆」アメリカ市民に向かってハル・ノートを暴露すればよかった。そうすればアメリカ市民はルーズベルト大統領に対する監視を強め、めったなことは出来なくなったのではないか、というものです。日本は相手が良く見えていなかったし、秘密交渉ということで律儀すぎたわけです。

  作家の新野哲也氏は「フライング・タイガー計画」をアメリカ議会に告発したら、ルーズベルト大統領の公約のウソがバレて議会から追求され、辞任に追い込まれた可能性が高い、と述べています。ルーズベルト大統領は密かにパイロットを義勇軍と称させて蒋介石軍に送っていたのです。ルーズベルトは大の日本人嫌いでした。彼を引き摺り下ろすための情報戦を早期にしかけるべきでした。

  しかし、日本はハル・ノートが突きつけられた時点で誰がどう言うともなく「開戦」しかない、と思ってしまいました。そして米はハル・ノートを突きつけて直ぐにスターク海軍作戦部長から米各軍へ戦争警告電報が発せられました。

「・・・日本の今後の動きは予測不可能だが、いつなんどき武力行使に出るかもしれない。戦闘行為を避けることができない。繰り返す できない のであれば 米国は日本が最初に明白な行為をとることを希望する」

  そして日本連合艦隊機動部隊は真珠湾に吸い込まれて行きました。



参考文献
  「パール判事の日本無罪論」田中正明著
  「渡部昇一の昭和史(正)」渡部昇一著
  「日本は勝てる戦争になぜ負けたのか」新野哲也著
  「真珠湾の真実」ロバート・B・スティネット著

関連記事
  「日本人は生存に値しない」ハル・ノート http://blogs.yahoo.co.jp/jjtaro_maru/22621755.html

添付画像
  真珠湾で日本機動部隊の攻撃を受ける戦艦カリフォルニア(PD)

http://www.hiroshima-blog.com/area/banner001.jpg クリックで応援お願いします。




転載元転載元: かつて日本は美しかった

歴史に学ぶとは・・・

「坂の上の雲」が昨年に続き放送されたようです。
この主題歌を聞きながらでも、下記記事をお読みください。・・・・・・
 
 
 
故・名越二荒之助さんは著書でこう書いています。
「我々は過去の歴史を書くに当たって、栄光の記録ばかりを見るのではなく、
屈辱の姿も描かなければ、生きた歴史とは言えません。
栄光の史実には『喜び』を、失敗の事実には『涙』を、
屈辱の経験には『憤慨』をもって接することによって、生きた歴史となるのであります」
・・・・・・
 
横須賀には世界に誇るべき記念艦三笠があります。
日露風雲急を告げる頃、英国西海岸にあるバーロー港のビッカース社で建造したものです。
 
三笠は日露開戦と共に、連合艦隊司令長官・東郷平八郎大将の旗艦として、
旅順要塞戦や黄海海戦、そして日本海海戦では三十八隻のバルチック艦隊のほとんどを爆破し、
空前の大勝利を収めました。
 
その後、大正15年以来、横須賀の白浜海岸に記念艦として永久保存されていました。
記念艦三笠はイギリスの「ビクトリー号」(トラファルガー海戦勝利)や
アメリカの「コンステチューション号」(フランス革命やナポレオン戦争、独立戦争で活躍)と共に、
世界三大記念艦の中でも随一と言われています。
 
その後、大東亜戦争敗戦で我が国は連合国の占領下に置かれました。
米国・英国・ソ連・支那等で結成された極東委員会では三笠の保存をめぐって
いろんな議論が交わされました。
 
ソ連代表のテレビヤンコ中将は、
「ロシアを負かした三笠を保存するとは何事か! スクラップにして直ちに海中に投棄せよ。」
と主張しました。
 
それに対して米参謀部長のウイロビー少将は、
「ソ連にはロシア革命の時に冬宮を砲撃したオーロラ号が保存されているではないか。
イギリスにはビクトリア号、我が国にはコンステチューション号が記念艦としてある。
日本国民の記念物を破壊して反感を買うことは避けるべきだ」
と言いました。
 
これを聞いたソ連側は不服でしたが、
横須賀占領の実権は米海軍にあり、三笠は何とか廃棄を免れました。
 
その後、三笠は米軍監視下に置かれ、心ない米兵によって
艦内のめぼしい記念品が持ち去られてしまいました。
昭和2319日、米海軍基地司令官は三笠の艦橋、マスト、砲塔、煙突を41日まで撤去の上、
横須賀市の教育事業に転用することを許可しました。
そして、横須賀市は民間の湘南振興会社に払い下げました。
 
この会社は三笠の艦内で米軍相手のキャバレー営業を始めました。
かつての東郷長官室は「キャバレー・トーゴー」となり、
加藤友三郎や秋山真之の参謀室はカフェとなりました。
 
イメージ 1
 
やがて朝鮮戦争がはじまると、艦内の鉄や銅、真鍮のめぼしいものは、
ほとんど売却されて、暴利をむさぼったといいます。
当時は敗戦による虚脱状況から抜けきれず、
横須賀市も日本政府も三笠の荒廃に目を向けようとはしませんでした。
 
このひどい状態をみて、復元のために元海軍大佐の中村虎猪さんが立ち上がりました。
中村虎猪さんは昭和30年に「三笠の復元」を公約にして市議会議員に立候補、
市民から支持され見事当選しました。
さっそく湘南振興会や日本政府にまで掛け合い、地元新聞をも使って三笠復元を訴えました。
 
同じく昭和30年、75歳のイギリス人・ジョン・ルービンさんが商用で来日した。
ルービンさんは三笠がイギリスの造船所で建造された当時、現地で貿易商を営んでおり、
三笠の乗組員がルービンさんのお店に来ていたことと、
三笠が自分の住む町で造られたことに愛着と誇りを持っていて、
その後の日露戦での活躍も知っており、日本も当然大切に保存してくれていると思っていました。
その三笠を見るため、真っ先に横須賀市に駆けつけました。
 
しかし、そこで見たものは、無残な三笠の姿でした。
ルービンさんは愕然とした・・・。
激怒したルービンさんは、この日本の忘恩ぶりを「ジャパン・タイムス」に寄稿しました。
 
「何という日本人は忘恩の国民なのだ。
戦い敗れると、対馬の英雄トーゴーとミカサのことも忘れてしまったのか。
神聖なるミカサが丸裸になり、ダンス・ホールやアメリカ兵相手の映画館になったのを
黙って見ているのか。
何たる日本人は無自覚であることか」
(昭和30920日)
 
この寄稿はアメリカやオーストラリアからも反響があり、
「三笠の復活こそ、日本国民の精神復興の試金石であるべきだ」と言った。
 
さらに昭和33年。
「文藝春秋」の2月号に「三笠と私」という文章が掲載されました。
これを書いたのは大東亜戦争で日本海軍と戦ったニミッツ元帥でした。
 
ニミッツ元帥は日露戦争直後に東郷提督と会い、以来東郷元帥を尊敬し、
東郷戦法によって日本帝国海軍を全滅させたアメリカ・太平洋艦隊司令長官です。
そして、194592日にはミズーリー艦上で日本降伏受託書に署名した人物でもあります。
 
「この有名な軍艦がダンスホールに使用されたとは嘆かわしい。・・・・
日本国民と政府が全世界の海軍軍人に賞賛されている東郷提督の思い出をながらえるため、
適切な方法を講ずることを希望する。・・・
この一文が原稿料に価するならば、その全額を東郷元帥記念保存基金に
私の名で寄付させてほしい・・・」(文藝春秋 昭和332月号)
 
この文章に刺激された日本人たちが三笠保存の動きとなり、
ニミッツも米海軍を督励し、横須賀の廃艦一隻を日本に譲渡し、
スクラップにして得たお金約三千万円を三笠復元にあてさせました。
そして、昭和365月に三笠は復元されました。 ・・・・・・
 
 
「我々は重大なことを学ばなければなりません。
戦後、三笠復元について努力したのは日本人でありました。
しかし、恥ずかしながら、外国人から指摘されなかったら、こんなに早く、
見事に復元することはなかったかも知れません。
・・・・・・
我が国はこれから再び戦争に巻き込まれるようなことがあるかも知れない。
そして、残念にも戦争に敗れることが起きるかも判らない。
しかし、戦争に負けることは決して恥ではない。
むしろ恥とすべきは、日本人としての魂を失い、それを敵に売り渡したり、迎合することである。
かつて昭和敗戦後の日本人は、それを恥とも思わなかった時期があったが、
私たちはこのような過ちを再び繰り返してはならない」(名越二荒之助)
 
 
 
イメージ 2
 
 
イメージ 3
 
 
 

転載元転載元: さくらの花びらの「日本人よ、誇りを持とう」

日米戦の遠因となった排日移民法。
イメージ 1

  大正13年(1924年)、米国で絶対的排日移民法が成立します。これ以来、米国は日本との外交交渉において強硬姿勢をとり続けています。

1906年(明治39年) 日本人の学童は米国人とは隔離
1907年(明治40年) サンフランシスコで反日暴動
1908年(明治41年) 日米紳士協定により一切の新規労働移民を日本は自粛させられる
1913年(大正2年)  カリフォルニア州で日本人移民の土地所有禁止
1920年(大正8年)  カリフォルニア州排日土地法で日本人移民の子供も土地所有を禁止
1922年(大正11年) 米国最高裁判所で日本人を帰化不能外国人と判断
1924年(大正13年) 連邦法で排日移民法が成立

「日本はあたかも突然、何の前触れもなく、親友に頬を打たれたように感じた」ノンフィクション作家、ジョン・トーランド(大日本帝国の興亡)

  昭和天皇は戦後の回想の中で戦争の遠因として以下のように述べています。
「この原因を尋ねれば、遠く第一次世界大戦後の平和条約の内容に伏在している。日本の主張した人種平等案は列国の容認する処とならず、黄白の差別感は依然残存し加州(カリフォルニア)移民拒否の如きは日本国民を憤慨させるに十分なものである。又青島還付を強いられたこと亦然りである。
  かかる国民的憤慨を背景として一度、軍が立ち上がった時に、之を抑へることは容易な業ではない」

  欧米人の有色人種の差別意識は相当強いもので、例えば、米への日本人移民は「写真結婚」ということを行っていました。写真、履歴書を故郷の仲介者に渡して、文通だけで交際し、入籍して渡米するというものです。こういう文化の違いも奇異の目で見られて攻撃材料にされたのです。

  ただ排日運動が起こった当初、日露戦争のときに日本を支援したセオドア・ルーズベルト大統領は排日は日米関係を危うくするものと認識しており、息子宛の手紙で「余は日本の問題(排日)では痛く悩んでいる。カリフォルニア、特にサンフランシスコの大馬鹿どもは向こう見ずに日本人を侮辱しているが、戦争となった暁には、その結果に対して責任を取るのは国民全体なのである」と書いています。そして議会の演説で注意を促し、これ以上、日本人への迫害が続くなら、合衆国軍隊の出動も辞さずとまで警告しました。こうして1908年の日米紳士協定が結ばれます。
  1913年になると再び排日が噴出し、1919年のベルサイユ会議で日本が人種平等を提唱したため、排日運動が再燃化します。移民法案が着々と進められ、日本は厳重に抗議します。日本は移民の受け入れ云々ではなく、差別的扱いは日本国民を憤慨させるもので両国の友好のためにならない、と主張しています。

  移民法案が上院下院を通過すると日本の反米世論が沸騰しました。日本のマスコミは連名で「排日移民法の成立は内容において人道に背き正義に反するのみでなく、日米両国の伝統的信誼(しんぎ 信用と道義)を無視したる暴挙である・・・」と抗議しました。あちこちで集会が開かれます。そして「米国民に訴ふ」「日本同胞国民に与ふ」と遺書を残し割腹自殺を遂げる人まで出たのです。両国国技館での集会は3万人が集まったといいますから、先月のAPEC4000人デモなど比ではなく、世論沸騰状態だったということです。

  ここまでの話だったのか、とちょっと驚きます。おそらくこれも戦後は「日本悪」を刷り込むため言論空間から遠ざけられてきた話なのでしょう。



参考文献
  「日本人が知ってはならない歴史」若狭和朋著
  文春文庫「昭和天皇独白録」
  「大東亜戦争への道」中村粲著
  「世界から見た大東亜戦争」名越二荒之助編

添付画像
  1942年4月移動させられるカリフォルニアの日系のアメリカ人の子供たち(PD)


http://www.hiroshima-blog.com/area/banner001.jpg クリックで応援お願いします。


転載元転載元: かつて日本は美しかった

造り続けよ!世界に誇る日本の掃海艇

世界遺産級の技術を絶やしてはいけない

2010.10.22(Fri)  桜林 美佐
 
 この10月、海上自衛隊で2隻の艦艇が進水・命名式を迎えることになった。
 
 1隻は2007年度計画・護衛艦「あきづき」(造船所は三菱重工業 長崎造船所)。もう1隻は2008年度計画・中型掃海艇(造船所はユニバーサル造船 京浜事業所、名称は10月25日に公開)である。
 進水したこれらの艦艇は、この後1〜2年ほどかけて艤装をし、就役することになる。

ペルシャ湾で成果を挙げた木造の掃海艇

 私は、かつて自著『海をひらく 知られざる掃海部隊』の取材のため掃海艇建造の過程を追い、最後の木造掃海艇の進水式に立ち会ったことがある。
 
 居並ぶ海上自衛官が敬礼する中、わが子の第一歩を見送る造船関係者の視線を浴びて、行進曲「軍艦」のメロディーとともに船台を滑り、波打つ海上に放たれる姿は初々しく、非常に感動的であった。
 
 「掃海艇が木造?」と驚く方もあるかもしれないが、機雷の除去をするためには磁気がご法度だ。そのため、わが国の掃海艇はずっと木で造られていた。
 
 木造船を使用していたのは日本のみであり、まさに船大工の技が生かされていた。そこには熟練のカンや経験が不可欠の、極めて高度な技術が用いられていたのだ。
 
 日本で初めての海外派遣先であったペルシャ湾には、この500トン前後の小さな木造の掃海艇4隻(補給艦、掃海母艦を加えて計6隻)で赴いた。
 
 建造時には想定されていなかった長い航海を経て、過酷な気候条件下にもかかわらず無事に役目を果たしたことは、日本の掃海部隊の練度の高さのみならず、掃海艇建造技術の高さも世界に知らしめることになった。
 
 海上自衛隊幹部は、「この小さな木造の掃海艇で、片道1万3000キロもの航海をしてペルシャ湾まで行き、成果を挙げたのは誇らしいことです」と胸を張っていた。
 
 グレーに色を塗ってしまうと他の護衛艦と見分けがつかないが、中に入ると木の良い香りが満ちていて、「ここは木造艇の中なんだ」と実感する。
 
 特に、横須賀基地に配備されている1000トンの「やえやま」型掃海艦は世界最大の木造船であり、関係者から「世界遺産にも匹敵する。もっと日本の技術の素晴らしさをPRしてもいいのではないか」という声も出ていた。

FRP艇は2010年度計画の予算が付かず

 だが、その木造掃海艇も、材料である米マツのコストが上がったことから、2006年度計画の「たかしま」を最後に建造終了となり、2008年度計画艇から、強度の高いグラスファイバー強化プラスティック製(FRP)になった。
 FRPにすると建造費は1割高となるが、寿命は木造艇(16年)に比べて2倍長持ちだという。
 
 FRPに移行したと言っても、高い技術が要求されることは変わりない。関係者は「木造艇のノウハウも身につけている専門の職人が必要」と言う。
 
 しかし、FRP艇は2008年度計画、2009年度計画で発注されたものの、2010年度計画の予算が付かず、1年の空白ができてしまっている。
 
 関連企業では、専門性が高いことから技術者の他部門への流動もできず、同部門の存続が困難な状況に陥っているという。世界が目を見張った日本の掃海艇建造技術が、このままでは失われるかもしれない。

年々減っていく護衛艦の予算

 イージス艦など護衛艦の製造も、商船などで代替できない設備や技術が多く、企業は受注が減り続ける状況に悲鳴をあげている。
 
 汎用護衛艦(DD型)の造船所受注契約額(艦載砲などを除く)は、2007年度が約349億円、2008年度が313億円、2009年度が297億円と、年々、減少している。
 
 護衛艦は自衛隊の装備品の中でも、製造に関わる企業が飛びぬけて多い。その数は護衛艦1隻につき約2500社。中には、叩いても割れにくい電球など、他社には真似できず、かつ防衛装備品以外の需要が見込めないような特殊技術を持つ「オンリーワン企業」も数多い。
 
 それらの町工場などにこれ以上のコスト削減を迫ることは「もはやできない」と大手プライム企業関係者は漏らす。しかし、大手企業も、利益の見込めない部門の存続が許される状況にはなく、「板挟み」となる悩みは絶えない。
 
 町工場の経営者は、「一流のものを造るためには、設備投資も研究開発もしなければなりません。しかし、受注がなければ・・・」と表情を曇らせる。

やればやるほど損をする中小企業

 1999年から導入された競争入札制度も製造企業を圧迫しており、「赤字受注に陥っている」と訴える企業も多い。最新技術習得のために海外で研修するなど努力を重ねても、将来の建造計画は不透明で、目に見えぬ経費は回収できるのかどうか分からなくなっている。
 
 新造艦に対応できるようにドックを新たに建造し、最新の設備を整えて艦艇受注に備えた企業も、防衛省から「民需でも使用可能では」と判断され、結局、予算が認められない場合が多いという。言うなれば「やればやるほど損をする」という構図だ。
 
 先行投資した企業ほど、防衛予算削減の波を受けることになる。これが、果たして国益に適うことなのだろうか。
 
 日本の造船業そのものが世界の価格競争に飲み込まれてしまった感があり、体力が弱くなっている中で、防衛部門での受注減がトドメを刺すようなことになりかねない。
 
 昨今の尖閣諸島を巡る問題では、これまで、必要な法整備をはじめとする施策をサボってきたツケが回ってきている。
 
 領土を守る気概が希薄だったことを大いに反省し、今後の(徹底した)取り組み次第では、今ならまだリカバーすることができよう。しかし、防衛技術の基盤維持は対策を怠れば、確実に将来はない。後で悔やんでも手遅れなのである。
 
 

転載元転載元: 本願成就と如来回向


.
庭山行政書士事務所
庭山行政書士事務所
男性 / O型
人気度
Yahoo!ブログヘルプ - ブログ人気度について
友だち(12)
  • 谷 潜蔵
  • 近野滋之
  • 理瀬
  • 野あざみ
  • あまのじゃく
  • raspberryko
友だち一覧

スマートフォンで見る

モバイル版Yahoo!ブログにアクセス!

スマートフォン版Yahoo!ブログにアクセス!

1 2
3 4 5 6 7 8 9
10 11 12 13 14 15 16
17 18 19 20 21 22 23
24 25 26 27 28 29 30

標準グループ

過去の記事一覧

検索 検索

よしもとブログランキング

もっと見る

[PR]お得情報

ふるさと納税サイト『さとふる』
実質2000円で特産品がお手元に
11/30までキャンペーン実施中!

その他のキャンペーン


プライバシー -  利用規約 -  メディアステートメント -  ガイドライン -  順守事項 -  ご意見・ご要望 -  ヘルプ・お問い合わせ

Copyright (C) 2019 Yahoo Japan Corporation. All Rights Reserved.

みんなの更新記事