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「世界の王」の在所 『精霊の王』、やっと読み終わりました。この本に書いてあるコトは、入り口(出口も)を間違えるとトテツもなくつまらなくなっちゃうので注意が必要ですが、私にとってはスゴク面白かったです=^ω^=
というのも私、「世界の王(レックス・ムンディ)」についての物語を書きたいと思っていて、で、「世界の王」って、多分「世界の秘密」を知ってる王様なんだろーけど、ドコにいて何するんだろー?とずっと考えていたので、とても参考になったんデス。 最初におことわりしておきますが、この本の中では「世界の王」について語られていても、もちろんそれをレックス・ムンディなんて呼んではいません。(ちなみに、レックス・ムンディというのはカタリ派が作り出した言葉で、この世を創造した悪神を指し、この世界の創造主だから、この世のすべてはレックス・ムンディに支配されているんだそーです。)でも中表紙に、"Le Roi du Monde Caché"とは書いてあります。「隠された世界の王」ダネ=^ω^= で、この本で「世界の王」として語られているのは、「宿神」とか「シャグジ」とかと呼ばれる神様なんですが、他の呼び名(「石神」なんかはウチらにも馴染みありますヨネ)にも、みんな境界性を表わす「サ+ク」音が共通してるんだそーです。この神様は、申楽やら蹴鞠やらの芸能や、職人さんの守り神なんだって。つまり技芸の神ね(^.^) この宿神について、室町時代の能楽者金春禅竹(世阿弥の娘婿だそーです)が『明宿集』という草稿を書いていたのが昭和39年に発見されて、宿神研究は飛躍的に発展したらしい。(巻末に著者の妙ちくりんな現代語訳がついてて、それがまたオモシロイんだ。スゴイぞ金春禅竹!) 盛りだくさんで、いちいち書いてるとキリがないから、結論っぽいことを言っちゃうと、宿神というのは著者によれば、この世とあの世、存在と非存在、「ある」と「空無」などの境界領域を行ったり来たりすることで、存在の様態の絶対転換をなかだちする精霊みたいなものとか、それのいる空間のことらしい。だから、子供が生まれてくるときに被ってることがある胞衣とか(無と有の境い目だね)と同一視されたりする、というワケだ。 そういう神様が人間の前に出現するときは、たいてい揺れてるんだって。つまり踊ってるのね。内容のよく理解できない不思議な歌を、小さな声で歌いながら出現してくることもあるんだそーです。なんかカワイイでしょ♡ 自分がいた空間そのものが、ゆらゆら、ふわふわ、振動しているので、そこから出てきたばかりの神様の身体も、ゆらゆらしてるらしいデス(~o~)ノ~~~ユラユラ〜 で、この空間はプラトンのコーラにそっくりだ、と著者は言うワケです。イデアが前面でスポットライト浴びて同一性を作り出してる後ろで、そこには組み込めない動揺や差異を孕んでたえず揺れ動いてる、母なる受容器の役目を果たしてる、とゆーことです。 この神様、面白いことに東日本では、諏訪大社のミシャグチ神に見られるように、「世界の王」にふさわしい扱いを受けていることもあるんですが、西日本では被差別部落などの守護神となっているんだそーです。 縄文的な社会においては、「世界の中心」たる真実の王は社会の外、つまり自然の中にいて、境界の外から人間の社会の内部にやってくるものでなければならなかったのが、西日本では天皇制とともに自然のものであった「超越的主権」を社会の内部に取り込むトリックによって国家が発生し、宿神は秩序の維持にとっては危険な過剰をはらんでいるため「賤性」に染まっていると見なされるようになった、と著者は分析しています。 著者はこの神について、原初的な「野生の思考」の神であることを強調するのですが(paganでありheathenですかね)、もちろん、それはそうなんですが、これを一神教なり仏教なりがイデアの同一性を確立する以前にあったノスタルジックな原初状態の神ととらえちゃったら、オモシロサ激減ですよね。 宿神はどこにもいる、それを感じなきゃダメよ、というようなことを、たしか金春禅竹も言ってた(よーな気がスルデス)=^ω^= これは偶然(ではない?)かもしれないケド、私の書きたいお話には、沖縄の海底遺跡やケルトの秘儀なんかも絡めたいと構想していたので、この本に沖縄の祭りにおけるニライスクとかアーサー王=世界の王とかの話題が出てきたのも、私の中のユラユラしたつながりを解明していくヒントになりそーデス。 もうひとつ、ニーチェの『悲劇の誕生』も盛り込みたいと思っていたので、その関係を考えてみようと思います。ディオニソスといえば「踊り」だから、これも宿神の系列?と思ったのだが、むしろギリシャに<一なるもの>という一神教的概念を持ち込んだのがディオニソス祭だと書いてあるので…(o^v^o) ニャハ |

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これは面白そーだね♪^^^仏教的な融和的統一やキリスト教的な差異化的統一の後でも、その中に、土着の神々たちがいろいろな形で潜り込んでいるし、今でもそこかしこにユラユラ漂っているんだろーね。___前に読んだ新吉センセのってどれもツマラナかったけど、この本は彼の長所が発揮されていそう。レビューでもN沢苦手なヒトにもお薦めのN沢随一の本とかって言ってたね。
2007/4/14(土) 午後 0:01
真言宗関係でオモシロイ情報をさしあげましょー♡^^^両界曼荼羅ってありますでしょ、金剛界と胎蔵界。地蔵菩薩の「地」は顕在化する金剛界をあらわし、「蔵」は陰伏する胎蔵界をしめすんだそーです。これでいくと、この宿神のいる場所は胎蔵界なわけですかね=^ω^=
2007/4/14(土) 午後 3:21
ついでに、「虚空蔵菩薩」っているじゃないですか。昔からヘンな名前だと思っていたのですが、文字通り虚空を蔵している菩薩なんですね(^.^)^^虚空は偏在して、完全な充実を保ったまま、増えることもなくまた減ることもない。「蔵」には「隠す」という意味が含まれ、「隠す」には「現れ」がともなう。無と有との際限ない転換がおこっているのだそーです=^ω^=カックイ〜
2007/4/14(土) 午後 3:24
ほうほう♪^^^密教って、仏教の中でも特に想像界や象徴界の機能を目イッパイ使い切る、って感じだね。禅宗の還元主義的な方向と正反対。で、禅がモダニスムで、密教がポストモダニスティックって前に三毛ちゃんのパンフに書いたんだけど、さらに大日如来はコーラとしての母性であると同時に、絶対言語としての父なる真-言でもあって、しかも隠れることによって在るエクリチュールで……「真言って便利だなあ!」ってHiro松さんが言ってたけど、全くだね*^e^*
2007/4/14(土) 午後 3:55
それから、この本の中では西田哲学との関連にも触れられてて、父性的なファロスが「主語面‐述語面」からなる何かの命題を語るとき、そこに発生するつねに語り残されるものを追って述語面の底へと思考はたどりつき、そこから超越を果たすと新しい平面が現れてくるんだけど、ロゴスは「述語面への超越」を繰り返した果てに、いつしか「無の場所」にたどりつき、この「無の場所」はすべての存在の述語面として、いっさいのものを包摂する受容器となる、とか言われてるんですが(つづく)
2007/4/14(土) 午後 4:07
これってこの前読んだ「エンベディング」を思い出しちゃいマシタ=^ω^=
2007/4/14(土) 午後 4:07
「エンベディング」には、例の「はめ込み言語」の他に、完全に論理的な言語で子供を育てる実験をしてる人も出てきて、論理言語には冗長性がないようにしなくちゃならないから、冗長性を踊りに組み込むことで言語の設計では冗長性を排除できる、ていうんで、子供たちはいつも踊ってたんだよね=^ω^=
2007/4/15(日) 午前 7:39
言語を論理機能だけに純化して、詩的機能とかを身体言語に振り分けて、表現の記号論的分業するわけねw^^^それで思ったけど、多神教の神々って、役割分業細かいよね。宿神もふらふら、ユラユラしてるんだったよね。踊る神的言語、論理機能で救えない詩的言語で、だからコーラなのか♪^^^うまくツジツマ合っちゃうね〜(^o^)
2007/4/15(日) 午前 10:11
(^.^)^^^で、西田的観点で脱構築が起こる。論理的述語付けも、それを推し進めると、象徴界の外部の無の場所、13階めいた現実界に触れる、そこは母なるコーラ、あるいは「すべてではない」の女性的な剰余の超言葉で…。栗棄て婆vs爺宿神 v*^o^*/
2007/4/15(日) 午前 10:12
そゆことだね(^_^;)^^^でも、まあ、こーゆーできすぎた話、マジで信じちゃうヒトもいるから、ホドホドにしとかないとね(#⌒〇⌒#)キャハ^^^それにこういう話するときは、同一性の生まれる場所とか仕組みをもっと緻密に追っていかないと、ちっとも面白くないよね☆彡(ノ^^)ノ☆彡ヘ(^^ヘ)☆彡(ノ^^)ノ☆彡っと
2007/4/15(日) 午前 11:27
ミ(^^・.そうだね〜。連想ゲームで妄想は広がって、イマジネールなちっちゃい神々が踊りだすけど、その踊りの秘密の暗号解読は、緻密にしないとデータベース・コレクションのオタク的な趣味の中に閉塞しちゃうんだろうなあ。でも、素材がカワイイ、というのは、それはそれで大事なことだよね☆。・^^)彡
2007/4/16(月) 午前 6:21
まあそーなんだケド、でも宿神さんに関して言えばカワイイばかりじゃない、とゆーか、むしろかなりブキミ。なにしろ金春禅竹が宿神論を書いたのは、実は能の「翁」の正体が宿神だという話なのだ。翁ってかなりブキミな存在ではないか?^^さらに仏教では摩多羅神という妙に俗っぽい風体の、人が死ぬときに罪障のたまった肝臓を喰ってくれるという、これまたブキミな神様でもあるのだそーだ=^ω^=
2007/4/16(月) 午前 6:46
ブキミって言っても、アノ本の挿絵にある摩多羅神のブキミさは、フツーにオヤジ的なブキミさだね。まあ、ブキミというのは、どこかシックリこないコトへの感情だから、「オヤジ性」というのも日常に遍在する違和、って意味では、リアルなもんなんだろう、昔の人にとっても(^^;^^^でも、もっとカワイイ不気味の方がイイなあ(*^o^*)
2007/4/16(月) 午前 7:15
このヒトは、阿弥陀如来の後ろにいるらしい…(-_-;)^^^フツーの俗っぽいオヤジがそんなありがたい神様だっつーこと自体が、またブキミなんだよね…(/゜▽゜)oフッ
2007/4/16(月) 午前 7:23