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ビンバサーラとイーディーハに、玉のような男の子が生まれた。占いどおりだ。ということは…。
すくっと子どもを抱き上げたビンバサーラ。「この子は生まれなかったことにしよう。なに、また子どもはできる。こうしてお前は妊娠出産したのだからな。」抵抗するイーディーハを説得し、高台に上るビンバサーラ。「迷わず成仏してくれ。ななまんだぶつ。」とは、いわなかったが、両手を離し子を落とした。
「堕胎」ということが難しかった時代。出産時に母子共に、生命の危険を冒していた時代。であるから、出産時に死亡となれば殺人にはならない。わが国でも、つい最近まで産婆がそっと濡れ手ぬぐいで窒息死させ「死産」とした例は多かったのだ。
さて、高台の下にて死亡を確認にいった家来は驚く。なんと、赤子は小指を骨折してはいたが命は無事であった。これは「神意」である、それが大臣達の意思であった。さらに、子どもを落としたビンバサーラやイーディーハは、むしろほっとした。この日の一幕はなかったことにしよう、これがマガタの宮廷での暗黙の了解となった。
こうしてアジャータシャトルという皇子はすくすくと育つのである。シッタルダはこの頃、マガタについたのである。だがこの事件が後年この宮廷だけではなく、シッタルダいやブッダとなった釈尊とその教団に大きな影を落とす事になるのだが、その事実を誰も知らないのであった。
空前の繁栄。商売をし税金さえ払えば、誰でも国民として受け入れてくれる社会。街には青い目や赤毛の人々もうろうろしている。裸形の修行者がいるかと思えば、火を口からふいているもの、人とは思えないポーズ(股の間から顔がのぞいている等)をとっているもの。シシカバブーを売っているものの横で最近はやりのスキンヘッドを散髪屋にしてもらっている。その隣では、ALL100円ショップ。
「こうしてみると、ラージャグリハは燃えている。人々の欲が燃え盛っている。私もかつて米商人としてあの中にいたんだなあ。」感慨深いシッタルダであった。だがしかし、今やシッタルダの関心はそこにはない。「ああしているうちに人はあっという間に命を失う」
ならば、人はなぜ生まれてきたのか。そしてどうして苦悩を味わわねばならないのか。様々な違いをもって人は生まれ、自己の意思のかかわらず人生は動かされる。まるで羅針盤のない船のようなものだ。だから人は「羅針盤」を求める。間違いのない道を歩いていると思いたいのだ。バラモンはそんな人の習性を吸収して聖職者として社会に君臨している。しかしその実、彼らもまた自己の地位保持という「欲望」に囚われているだけではないか。真理を求めるのではなく社会のニーズに答えることで、存在価値を主張しているだけではないか。「儀式」「祭神」「占い」。神秘性と伝統を強調し、コトバを聞くものを酔わせて「いい気分」にさせる。それは実は真理への裏切りであり大きな罪ではないのか。
シッタルダは、そんな事を直観的にとらえていた。だから、家を出たのだ。大都会の喧騒の中で、改めてそのことを噛み締め、決意を新たにするシッタルダであった。
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真理を求める気持ち、というもの自体が、いちばん不思議であるような気もしますね。「真理」の存在そのものを疑うと、前に出てきた懐疑派になっちゃうわけですね。そろそろ、難しい話になってきた、かな?
2005/11/4(金) 午後 4:10
ちょっとカタイ部分を書きましたが、多分ノリとして、シッタルダは「真理」の事を考えたり観察したりすることが、楽しかったんだと思います。面白くて辞められなかった。「わかっちゃいるけどやめられない」の植木等氏の心境でしょうか。
[ nazunayh ]
2005/11/5(土) 午後 10:12
「楽しかった」から!すっごい!!刮目しました、マジで。 それは自然だし、説得力もあります。うむむ、さすが本職、やるなぁ、、、と申し上げては失礼なのでしょうが。恐れ入りました!!
2005/11/7(月) 午後 1:34