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なにも考えないという状態とは。想像するに、外部の刺激に対して反応しない状態をつくることと思われる。
シッタルダは改めてアーラーラに問うてみた。
「なーんも考えん。それで、死を受け入れられるのですか。」
「然り。何も考えんから自分が死んでいても気がつかんじゃろ。」
「では、生そのものの意味はどうなります。」
「なんも意味はない。そういうことを考えると苦になるから、考えんのじゃ。」
「では、生に苦しむものへの答えを与えることはできませんね。」
「然り。ただただ無の境地を楽しむのみ。」
これはあかん。とシッタルダはさとる。この人につきあってずーーっと座っているだけならいいが、現にこの人の生命は多くの人々の恵みで支えられている。そのことも考えないで、ただただ自分の内面にこもって楽しんでいるだけではないか。
これっておかず無しのオナニーじゃん? そこには何のかかわりもいらない。それはすぐれて独立して生きていることになるが。真実はそうか?
シッタルダがアーラーラのもとにいる間にも、川は流れ雲が動き雨が降り現にその水がシッタルダののどを潤し、命を支えている。心を無にすることは、そういう事実に目をつぶる事にすぎないのではないか。
シッタルダが求めているのは生の意味である。意味がないなら生きるに値しないことになる。ひたすら無感覚に死を待ち受ける時間を消費するのが人生となる。そんなのどこかおかしい!!
シッタルダは知らなかったが7000年後の東の果ての島国で、贅沢三昧した人々の中から、アーラーラカーラーマと同じことを言い出すヤツがいる。「終わりなき日常を生きるしかない」なんてかっこよくTVやメディアでコメントするヤツが。今どうしてるかなあ?ブルセラ評論家さん。
シッタルダがみたところ、アーラーラカーラーマはいい線いっている。でも彼の弟子と称するメンバーは独身にして無を楽しむ師を売り物にして、素晴らしい教えだともちあげて信者から物銭を集めているだけである。
「師よ。残念ながらここは私のいるところではないようです。」
さすがに、アーラーラもシッタルダの素質を見抜いていた。
「尊者シッタルダよ。そういわず、わが元に留まり弟子を育てて欲しい。わしの力になって欲しい。」
そう引きとめたが、シッタルダは「我は真実に会いたいのです」と去っていく。
去っていく彼の背に、アーラーラの叫びがこだまする。
「シェーーーン、カムバーーーーック!」
小さくなるシッタルダの背中。
「では、悟られたらば一番にワシの元へもどられよ。まってまっせーーー。」
インドの荒野に、虚しくアーラーラの声がいつまでもいつまでも響いていたそうな。
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なるほどの結論ですね。前回記事の私の疑念には、すっかり回答が出ていたわけで。となると、次の展開に期待ですね(笑) ちなみに「終わり無き日常を生きる」と豪語してた人は、どっかのすっげぇ年下の才色兼備の金持ちお嬢さんと結婚したと思いますが。ああいう人は、決してブルセラ喫茶とか経営しないわけですなあ(笑)
2005/12/27(火) 午前 11:25