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実は本日葬儀を行った。昨日が通夜。一昨日が臨終勤行兼仮通夜。そこで三度、ブッダの言葉のお取次ぎをさせていただいた(これを法話といいます)。
1.臨終勤行
ご本人が日暮のなかで喜んでおられた仏様の教えを、臨終(死)にあたって、今一度勤行(読経)することで聞かせていただく。そして生死問題の解決をいただき死を乗り越えて生かされてきた日々を感謝。これが臨終のお勤め。残念ながら、昨今病院での臨終が多く本人ができない。そこで手次の住職が、本人の代わりに勤行する。
お経を伝統的な漢文で音読。その後、現代語で遺族に語る。生まれるから死ぬ。避けがたい自己にとっての一大事だが、この事実の受け入れを人間の脳は拒否する。だから事実が「苦」になる。その苦をどう解消するかである。私たちが帰依する経典では、死ぬのではなく「さとりの世界」へ生まれると説く。そしてそれは過去において既に決定している事であり、その事を自ら生死問題に向き合い解決しようともせず、自分だけは大丈夫と疑いに蓋をする(たかをくくり、或いは逃避し)そんな普通の人間(凡夫)に、心配しなくても大丈夫だよと知らせんが為に、言葉の仏様となって(自ら名乗って下さった)現れてくださったブッダに、まかせていくのである。
「この世界は流転し変化する世界でありその変化は人智で止められない」から、いかに愛おしく思えども別れねばならないことが必然である。しかし、このブッダの働きを知りこのブッダが「お前は私のさとりの世界に生まれて私と同じくブッダになるんだよ。だから死は消滅ではなく成仏なのである」と呼びかけてくださるのが念仏。念仏をいただけば、別れはあるがまたもう一度、この世界で縁のあった愛しい人々と「さとりの世界」で「姿・形のない無限の命」として、再会できるのであるよ。
以上のように経典において釈尊は、お弟子にむかって説かれたことを取り次がせていただいた。
2.通夜
通夜とは何か。人の臨終を知り、その人から「お育て」に預かった人が、暇乞いをする時間。この頃関西ではむちゃくちゃになっている。通夜式といったりお焼香させたり。ここでも勤行は参加者みんなで行い、ブッダの教えを聞く。死者に聞かせるのではない。生きている我々が聞かねばならないのである。
で、通夜法話。
通夜はご遺体を前にして、まだ生きていらっしゃるとして参列者がそれぞれに暇乞いを述べる。つまり「後のものは先をとぶらう(訪う)」のであります。様々な恵みをいただいたことをみんなが語り合いそれを聞きあい、別れを惜しむ。と同時にブッダの教えをいただくことで別れを受け入れ、故人が帰依されたブッダの教えに出会いまた私たちも学んでいく。その中で私の命の意味を問い、今までの生き方を振り返り、思いを新たにして人生を寄り深く生きようとする態度を育てる行事です。焼香だけして帰るのは意味が無い。故人とのかかわりや思い出さらに恩を語りに来るのです。参加者がみんな語るから、気がつけば夜が白んでいる。だから通夜なのです。
死すべき命であると気がついたとき、人は絶望します。闇に囚われる。じゃあ生きているうちに好きな事をせねばと、エゴを拡大する。こうなると、道徳や倫理は消えます。そんな社会を知らぬ間に育ててきてはいないか。しかし正しく乗り越える道に辿り着いた時、死は終わりでなく始まりであり、別れの痛みは残されたものの命の尊さを再認識させてくれます。また、返せないものを「恩」というのですから仏様からいただいた御恩に気づいた時には、今この世にある命にお返しをするのです。御恩報謝と申します。縁あって今日ここに集われた方は、ぜひこの後、ご家族と直接お話をされてお帰り下さい。そして皆さん方の生業や人間関係の中今日を感じたことを、生かしていただきますように。
3.おまけ
通夜の後、葬儀社の人と話す。別に無理して坊さん呼ばんでもええやんなあと。無宗教ならそれでいいからそういう葬式をつくったらいいのにねというと、「いいえ。大体今の人は葬式を自分たちがする、とは思ってないんです。葬式は葬儀社にお金を払ってまかせる。死者のことは坊さんが専門家らしいから坊さんにまかせる。そんな感じですよ。」へえ、そこまできてるのか、と感心。命のことに関心をもたない人間てこわいね。と海外駐在経験の豊富な故人の娘さんやお連れ合いが参加。
「ベルギーではやっぱり、貴方の宗教はと、一番に聞かれましたよ。形式的な仏教徒としか言えませんでしたけど。」
「うん。自分の命のことがわかるのが人間の特権やから、イスラムやキリストの社会で『無宗教』って言うと、『私はアニマルで人間ではないです』て宣言している事になっちゃうもん。犬やネコは自殺せんやろ。死を客体として認識せんからやで。」
そこから葬儀全般の話題になり、布施の話になる。
「私は皆さんと同じで凡夫やから、導師ていうのは勤行のリーダーていう意味や。お布施は私の労働料とは違う。私が尊いはずがない。へもこくしヨダレくるし、さっき言うたことも忘れるしな。私を葬儀社の人が丁重に扱わはんんのは、私が運んでくるブッダのみ教えが尊いからやで。」
だから、布施は法施に対する財施なのである。本当に「ブッダに従いダルマを学ぶもの→サンガ→僧伽→僧」ならば、そんな事は常識なのである。仏様にいただいたお布施でベンツに乗っているのは、僧ではありません。お布施が少ないとか言うのもね。ま、交通費もでない金額だとさすがに私でも「ここに寄せていただくのに往復880円はかかるので、せめて1000円は包んで下さいね」とは言うが。
てなわけで、本日葬儀と還骨勤行(お骨あげ)に法話をいたしまして、一通り終了しましたが、未だお布施は一銭もいただいておりません!自分でもスゴイと思うが。さすがに坊守(私の連れ合い)から、
「あんな。ウチはただになってもええけどな。葬儀にもう一カ寺出て欲しいていうて、〇〇寺さんに来てもろたやろ。それどうすんの!」
「ま、落ち着いたら届けますて言うておいたけど。」
「しゃあないな。相手の坊守さんに、お布施がきたら届けます、ってメール入れとくな。」
それ忘れてたなあ…。とほほ。
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TBありがとうございます。葬式仏教と言われながら、通夜の法話が省かれることも多い昨今。せめて御遺族とお茶をいただきお話しをさせていただきたいと思います。ぼんさんは確かに生き方だったのでしょうが、僧侶が職業や肩書きとなる今。日々の暮らしに教えが息づき、心のどころであった時代を懐かしく思います。ここは私の心のお寺です(^^)
2006/1/8(日) 午前 11:49
aikoさん、今年もよろしく。葬儀に思う2で述べますが「葬式仏教」にはいい意味もあるのです。今の時代こそ原点に立つものが求められているという認識ですので過激かもしれませんが、ウチのお寺はそれを通そうと思っています。(あんたに合わせるのん大変や!と、連れ合いの声が…)
2006/1/8(日) 午後 3:21