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スウィートbonbon(壽光寺の内緒話)

書庫浄土真宗をカタル

葬儀に思う2−特別編

昨日の続き。

還骨では、読経の後、蓮如上人のご文章(手紙布教)を読むのが、ならわし。

「それ人間の浮生なる相を・つらつら感ずるに、おおよそはかなきことは・この世の始中終・まぼろしのごとくなる一期なり。
 されば、未だ萬歳の人身を受けたりということを聞かず・一生過ぎやすし。今にいたって誰か百年の形骵をたもつべきや・我や先人や先・今日とも知らず・明日とも知らず、遅れ先立つ人は・元のしずく末の露よりも繁しといえり。
 されば、朝には紅顔あって・夕べには白骨となれる身なり。すでに無常の風来たりぬれば・二つのまなこたちまちに閉じ・一つの息永く絶えぬれば、紅顔むなしく変じて桃李のよそおいを失いぬる時は、六親眷属集まって・嘆き悲しめども・さらにその甲斐あらず。
 さてしもあるべきことならねばとて・野外に送って、夜半(よわ)の煙となしはてぬれば・ただ白骨のみぞ残れり・あわれというも中々愚かなり。されば、人間のはかなきことは老少不定のさかいなれば、誰の人も後生の一大事を心にかけて、阿弥陀仏と深く・たのみまいらせて、念仏申すべきものなり。」

で法話。
「仏教は後生を問題にします。後生とは『私の死の意味を問う』ということです。死の意味をとうという事は、今ここで生きている、「生」の意味を問うことなのです。生死は一枚の紙の裏表です。ひっくり返せば入れ替わる。だから浮生とおっしゃる。

見玉さまは、蓮如さまの最愛の娘さまでした。北陸、吉崎の御坊にて、門徒さんのお世話をされたりまた最もよく仏法を聴聞された方でした。その娘が三日の内にあっという間に死んでしまう。インフルエンザです。倒れた門徒さんや姉の看病をしているうちに悪化していたのです。24歳でした。

家族・仲間、はたまた仕事・地位、財産。私たちは何に安心して日暮ししているのでしょう。そういうものには裏切られる事があるのです。自分の勘定通りにはいかない。その意味で〈幻〉にすがっているのであり、あてにはならない。究極の支えにならないのです。

仕方が無いのでこの世のならいに従って火葬にしましす。死体を焼く場(当時は山野が多かった)に運び、マキを組んだ中において喪主として火を放つ。一晩中焼くのです。吉崎へ戻れば、山上ですから星明りに娘が焼かれる火や煙が見えるのです。そして翌朝訪れれば、もうあの愛くるしい娘の姿はなく白骨が転がっている。くり返しお説法され誰よりも深く仏法を聴聞された方でさえ、ああなんと人とは愚かしいことかそして頼りにならんものを頼りにする哀れなものか。痛ましい体験を通して始めて気づかされる。

〈死んだらしまい〉〈死んだ後にエエとこへいける〉どちらもつまらない。それで別れの苦が乗り越えられましょうか。

娘三人の親である私は、今死んだら三人の子が心配でなりません。私がエエといけてもこの苦は消えない。その事が凡夫の迷いであると知っていますが、執着せずにはおれない。迷わずにはおれないのです。

だからこそ、『死んで亡くなるのではない。ブッダに生まれ変わるのだ。』と決定してくださる仏様を尊く思うのです。『お前は気がつかなかったかもしれぬが、いつでもどこでもずっといっしょにいるのだ』」と私を包んでくださっているのです。

私見を振り回して〈迷い〉の中で生きる私たちをそのまままるごと真実の働きが包んでくださっていた(過去からずっと)と、聞かされた時に今ここで命の意味が変わるのです。生きてきたと思い込んでいたがそうではなかった、大きな大きなお慈悲が、時には慈雨としてあるいは仲間の一言としてあるいは両親となって、私を育ててくださったと目覚めるのです。生かされてきた、生かされているのです。

地球に優しいというフレーズが京都議定書前後から流行しました。しかしこんな不遜な言葉はありません。海や山や空気、地球を自らの欲望の為に汚し他の生物の〈命)を奪うことに何の痛みも感じない傲慢で自分勝手な私を、それでもなお許し育んでくれる『地球は優しい』というべきでありましょう。

そういうダルマのはたらきを通して、後生が解決したとき(つまり死ぬではなくブッダになる)今の人生はブッダへの道になる、それを蓮如さまは「阿弥陀仏とたのみまいらせる」とおっしゃるのです。いったん別れるわが子とも再会できる人生。永遠の命に生まれ変わっていく人生と、そう思えない私が、そう聞かせていただくばっかりの人生に変わる。これが仏教徒になるということです。」


疑われてはいかんので、今回のブログはちょっとお坊さんぶった。お恥ずかしい。

世間では葬式仏教を批判として使う。たぶんそれは、やたらとタイソウな格好で偉そうにして葬式の時だけ出てきてBGMとしてのお経を唱えて「死んだらエエとこいけるから」言うて大金をふんだくる、こういうイメージであろうか。だがね。祖霊信仰では「死」は穢れだとして、葬式はしない。参列したら穢れは移る。平安期の資料を見れば、たとえ親であっても死にかけたら《道や野原に棄てる》。穢れが移るとだめだから。京都七野は死体捨て場だったんだ。だから葬式仏教はいい面もある。

葬式を始めたのは死に至る病人を看病し死を見取ることが平気な人だけである。それが律宗(自力聖道門)のお坊さんだった。黒の衣はその印なのである。間違っても比叡山の坊主は葬式なんぞしなかった。
死を乗り越え死を受け入れてなお、生きるに値する人生を生きるもの。それが僧侶であるから、穢れ思想なぞ粉砕したのである。現在、六曜なんぞというつまらん占いに染まる馬鹿坊主がいる。友引なんぞを言うやつである。ブッダは一切の罰を与えはせん。しかし、きつく戒められるのが誹謗正法である。ダルマを謗ってはならぬ。世間の人々にお願いする。ダルマに基づかない、法を生きないものを僧侶扱いすることをやめてほしい。そうすると、世の中もっとすっきりするよ。

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    お葬式を中心とした一連のお供養を、かねてから、亡くなった方はともかく、残された人に何とやさしいことかと思うことが度々ありました。法話の省略を、退屈がる人へのサービスと仰ったお坊さんがいましたが、やはり大切にお勤めいただきたいと、つくづく思います。葬式もまともに出来ない仏教では、どうしようもありませんもの。もっと吠えてください。

    鈴木藍子

    2006/1/9(月) 午前 10:33

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    励ましをいただき感謝です。こんなやり方ですので、一回の葬儀や法事が終ると、精魂尽き果てる日々です。一日に何軒もの家庭と、おつきあいできません。時には、お経を読んでさっさと帰ることもしますが、私には「檀家400軒」は信じられません。

    nazuna

    2006/1/10(火) 午前 0:31

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    つい先日、会社の同年輩のご母堂が亡くなられて、お葬式に参列しました。自分の母親、そして次に自分自身の死を思いました。おっしゃる通り、私も葬式仏教を悪いとは思いません。むしろ、死に目を向けないものを宗教とは呼んではならんのではないか、と思いました。

    single40

    2006/1/26(木) 午後 1:47

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    お説のとおりです。メメント・モリ、死を想え。これが人間の人間たる由縁ではなかろうかといただきます。ホンモノの宗教は、「人生を肯定し人間への賛歌」を奏でるものです。そのために、死をみつめ人間存在をみつめるのです。判定は簡単なのです。人間の欲を煽り立てるか否か、です。

    nazuna

    2006/1/26(木) 午後 7:47

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