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今日は、朝から憂鬱である。お墓でのお勤めがある。
うちの門徒さんでも、檀家さんでもない。石屋さんからの頼まれ仕事だ。最近、近所に越してきた方で、ちょうど墓地に空きができたので、お墓を建てられた。その建碑のお勤めをしてほしいという。お宗旨も関係なし。とにかくお墓お経を読んでくれたらよい、という依頼である。 もちろん、仏教徒としての儀式ならば喜んで行う。しかし、お墓には仏教上の意味はないのである。墓石にお経をあげるのではない、参列者に聞いてもらうのだと強弁してみても、見る人には、「ボンさんが、お墓にお経をあげたはる。」としか、見えない。 はーっとため息をついたら、 「何考えてんの?」 と、坊守。 「過激な発言は、あかんで。」 と、釘をさされた。 数日前に、境内の墓地にお参りされたご門徒さんが、 「おじいちゃんに、久しぶりに会いにきました。これでスーッとしました。じいちゃんも草葉の陰で喜んでいると思います。」 とご挨拶された際に、営業用の笑顔は崩さなかったが、 「あんたのじいさんは、スズムシか。」 とつぶやいたのを、坊守は聞いていたのである。 「元気出して、たましいでもなんでも入れたり抜いたりしてきなはれ。」 と、励まされて表へ出る。 仏教には、たましい(霊)と肉体(物質)の二元論はない。しかし、この国の仏教は、仏像を礼拝するという行為が先に輸入され、仏様はインドの神様と理解した。「ありがたいもんは拝んどけ」「お参りせんとバチがあたり、お参りしとくとええことがある」というレベルである。 だが、わが「浄土真宗」は、「さとり」と「すくい」という、方向の違いはあるものの、もっともお釈迦様の仏法に近いのである。大無量壽経や親鸞さまのお書きものには、「自分の欲望をかなえるための行為」や「それを可能とする宗教」を、全て人を迷いに導く「魔」として、退けるように厳しく戒められているのだ・・・。 ま、お布施はお布施。仏法繁盛に使わせていただくのだから、と割り切ってお勤めをする。三人ほどの参拝者に、「お墓まいりは、結構なことでございます。まあしかし、できればお手次のお寺へ参られてお説教を聴かれてのち、お参りなさってください。」と穏やかに勧めて、お布施をいただいた。 やれやれと思っていると、どこかでみた顔が。 「ご院さん。やっぱりええ声やなあ。」 と、ゴイチさん。 「紹介したかいがあったわ。喜んだはったで。○○さん。」 「お、ほんならあんたがウチを紹介したんかいな。」 「ええお寺さん、いてへんか?て聞かれたさかい、なんちゅうてもうちのご院さんやいうたりましたんよ。だいたい最近の坊主のお経は声が小さいし、説教もせえへんやろ。それでは死んだ人が浮かばれんよね。その点、うちのご院さんは、声がええ。お説教もしてくれはるしね。ま、これでうちも鼻高々や。おおきに。」 褒められれば褒められるほどに、肩の荷が重くなる私でありました。あんまり、宣伝せんといてや…。 なずな(続く) |
お寺のくらし





