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スウィートbonbon(壽光寺の内緒話)

書庫仏教をカタル

で、「先祖供養」。
現世利益の論理矛盾は、少し落ち着いて考えれば誰しもが気づく。だから、大人は、
「本気で神仏に願いごとなどしてないよ。ま、気もちの問題だよ。」
と、自己弁護する。だが、その時既に、慣習という枠のはまっているのである。

祖霊崇拝とも言い換えられる。人間は群れで暮らしてきた。日本も例外ではない。一族=氏、という概念がそこから形成される。共に生きた共通の感情がその基盤となる。それは土地開発の記憶であったり、戦争の記憶であったり、生命を安堵された記憶である。それらが、一族の先達たちへの思慕の念や尊敬の念となる。

このとき血縁共同体そのものが維持の対象となるわけで、そこでは〇〇氏の××という形で個人が規定されるのである。神社の原型が「祖霊廟」つまり、一族の墓地であったことが、それを裏付ける。

問題は、この地域的信仰では、「日本」や「世界」という大きい地域をとらえきれない事にある。だから、仏教が伝来した時に、その普遍性が強烈に人をひきつけたのである。ただしそれは、氏族を超えた観念が必要な人だけのニーズであり、氏族社会に埋没して生活する人にとっては当面必要がない。ゆえに「鎮護国家」という形でしか受け入れられない。

こう分析してみれば、血縁共同体の祖霊を祭る古神道と仏教がいずれ融合していく事は、想定内のルートである事が明らかである。

ご存知のとおり、「天下」という概念が生まれて、国家統一意識というものが内向きにできてくるのが戦国時代である。それまでの国家意識はあくまでも中央政府の対外的な意識であった(主として対中国、朝鮮)。

しかし江戸は、強烈な中央統一ではなく、各地域の共同体を遺したままのゆるやかな統一を選択した。
やがて江戸の経済力が大家族の氏から小家族の自立を産み、このときから少しずつ「祖先は直系、つまり祖父祖母の筋に限定されるようになる。

先祖供養というのは、実はこのように社会のあり様が変化するとともに、その内実も変化しているのである。時代別社会変化に応じた分析を捨て置いて、まとめてしまえば、日本社会の制度や共同体を、意識的にかつ批判的に引き継ぐ事が「先祖供養」の内実である。

では、今言われる所の「先祖供養」はどうであろうか?全く違うことに気づかれるだろう。現代では、この私の利益不利益にかかわって「祖霊」や「先祖供養」が使われる。

ここにおいて「現世利益」と「先祖供養」は同意義になっているのである。各家庭や個人が「先祖供養」をしているつもりでいるが、歴史とそれを生きた人々の思いや願い、はたまた彼らが生きる支えにしてきた「宗教」や「思想」を、自分にひきつけて取捨選択すること、そういう営みが、とんでしまっている。

また、論理的な分析もしておきたい。論理や科学を主軸とする人々には、必要な視点であろうから。

「先祖を供養する」の主語は、私である。「生きている私たちの行為で死者を左右できる」という前提が、真実でなければ成り立たない論理である。そういう事が成り立つのか。釈尊でさえ「死すべき時が来たれば死する」とおっしゃってであるが。

親とはいえ自分とは違う他人の命である。それを自由にできるのなら、自分の命の事はもっと簡単にできるはずだ。「いやぼんさんができるんでしょ、修行をつんだから」とお考えのあなた。それは甘い。時間は不可逆である。追善というのは、不可能です。

ならば、追善がどうして成立するのか。それは、生き残った者を満足させる為である。「死者の為に」とうたいながら、「あの人の為にこれだけの事をした」という自分の為の行為なのである。

そうする事で、親しきものの死によって受けたダメージから回復をはかる。坊主を呼んで「読経」してもらう。仏壇を買い安置し祭る。墓を立てる。お骨を大事にする。こういうこと全てが、生者の為なのである。それはそれで、人の日常を支えるため価値がある。

だが、そのレベルではどこまでいっても「死」は人事である。自分もまた死すべき命を生きているという事実。そこから様々な問題(人生の苦悩)が起きて来るという事実。これらに対していつまでたっても向き合えない。追善では届かない。

命のことが自由にできたらいいなあというのが幻想である。煩悩である。もしも実際に自由になればよけいに「苦」が増えて悩むに決まっている。生死のことは我々の自由にはならない。そこから全ては始まり、新たな人生のフェイズに入る。ここの部分をきちんと展開しないから、オウムや神秘主義に囚われたり、死や破壊への衝動に囚われる人々が生まれる。

そういう現状を憂いつつ、仏教に基づききちんとモノ申すならば、「先祖の恩に気づきそれに対して感謝をしなさい。」という事だ。否、もっと多くの恩に気づき感謝する生き方こそ重要である。先祖だけでは成り立たない。日本社会が個々の生命を支え保障するように機能していること、あるいは世界中の人々が縁によって結ばれ、私の命を支えている事。さらに、この地球という星の恵みや地球を生み出し動かしている宇宙のはたらきがあって、この命がある事。いただくばかりでしたね、この命。そういう多くの恩を受けた命を、しっかりと生ききる。それが最高の感謝の姿であることを、仏教は教えてくれる。

墓や仏壇や位牌は、単なるグッズである。グッズ重視になるとそれが商売のタネのなっていくのである。
私も含めて、仏教を生きる者の宿業であるからこそ、戒めを忘れてはならない。

「ブッダの、親の願いを受け取ることで、願いに満ちた命を頂いていることに感謝し、苦を超えて生き抜いていく強さを仏様から与えられる」

これが仏教の利益である。そしてそれは人種や国家などを越えた、普遍的な真実である事は言うまでもない。 

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    いただいて今あるこの命に感謝すれば、先祖供養は自然な行いであるように思われ、特に意識することもなく慣わしとして参りました。そのような当たり前の暮らしの中で、穏やかで満ち足りた気持ちが、決してお金や名声で得られるものではないことも思い知ったように思います。お寺と疎遠になって久しいものの、改めて共感致します。

    鈴木藍子

    2006/2/22(水) 午後 10:45

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    aikosuさんの「先祖供養」は、御恩報謝と同意のように思います。私めが異議を唱えているのは、直系をことさら強調し無意識に排外的になる事と先祖供養を自己の欲望の充足に結びつける浅薄さであります。この違いが実は中々意識されにくいので、繰り返し論じておる次第です。

    nazuna

    2006/2/22(水) 午後 11:52

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    人は基本的に「生まれて来ようと思った」のではなく「気がついたらこの世に居た」わけですよね。生きるのはつらい。「なんでだよ?」と思う。生まれてきた原因は先祖にある。「責任者でてこい!」といったら、そいつはお先に「はい、さいなら〜」ふざけんな、ああ、だけど次は俺かいな?という思いがごたまぜで先祖供養だと思っております。当然「コノヤロウ」は直系にこそ向けられねばならん、と思うのであります。。。

    single40

    2006/2/23(木) 午前 9:43

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    内田樹氏(レヴィナスの徒であり、古武道家甲野善紀氏を評価する思想学者)の言に、「どういうルールで行われているのかわからないゲームに、気がついたらもうプレイヤーとして参加していたというのが人間の立ち位置」と、あります。ま、直系をその連鎖と見れば、フロイドのいう「親殺し」は自然ですね。

    nazuna

    2006/2/23(木) 午後 3:18

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    逆に「現世肯定」=「生きるのは楽しい!」となると「そもそも親が産んでくれたおかげ」となって、直系を格別感謝の対象にするのが自然に思われる。だから、たぶん先祖供養は「生者が死者をどうにかできる」ではなく、現世肯定思想に立った上で感謝するとなると、論理的に必然として導かれてくるように思うのです。。。

    single40

    2006/2/23(木) 午後 3:54

  • 顔アイコン

    「生きるのが楽しい」が直系への感謝となるのは、ある種近代的です。ある時代までは、ご先祖はもう少し広い。共同体が生存の前提ですから。山口百恵の「赤いシリーズ」のように、育ての親という部分が社会です。直系家族で生存可能になった条件下で、共同体的なものが薄れていく。私の危惧は、だから自然天皇制も廃れるし公のない社会ができあがるというものです。

    nazuna

    2006/2/26(日) 午後 9:14

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