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スウィートbonbon(壽光寺の内緒話)

書庫お寺のくらし

マンション僧侶の件。葬儀での多額の布施の請求。中陰に納骨、そして年回法要。人の死にかかわる民俗や習慣に、がっちり食いついて離さない「既成仏教教団」。

今日、明日で一人の門徒さんの葬儀がある。火曜日の夜に入浴中に倒れられたようだが、彼女の友が「連絡してもでない」と訪ねてきて、隣家の門徒と母の茶道のお弟子さんが発見された。

80歳の一人ぐらし。元教員でしっかりされていて、妹さん一家にも「お世話にならない」と突っ張ってこられた。足が悪くなり昨夏には、弱っておられたのだが、寺のものにはその本音を漏らされても、親族やご近所には、「負けるもんか」と、気張っておられた。

さて、葬儀となって妹さん一家は当然、質素な密葬を望まれたようである。感情的には無理も無い。それを説得し、「お寺を借りてきちんと葬式しなさい」と説得したのは、この地域の葬儀屋さんであった。

「お姉さんは、お寺やご近所の人に見守られて暮らし、ずいぶんお世話になったんですよ。往生されたことも知らせないでこっそり葬儀をするというのは、いけません!」

そうおっしゃったそうである。

この議論においては、葬儀は感謝の儀式である。
「生前お世話になりました。本人にかわって、改めて御礼をします。」

これならば、既成宗教団体の必要がない。皆が死者に別れを告げ、親族は生前の厚誼を感謝する。

これを「告別式」という。死者と生者の関係の総括である。だからゴール。

「葬儀」は葬送の儀式。送る側の儀式である。迷うのは生者で死者ではない。

今回の場合、「不審死」であるから司法解剖に回されている。またいわゆる孤独死でもある。
口さがない世間の中には、「かわいそう」とか「あれでは浮かばれまい」とか批判的なことを言うやつもいるだろう。

だから、ぼんさんを呼び葬式を行うという流れが、無意識に行われるのは、遺族への非難を回避しまた自分と死者との関係において「粗末にしてへんで。やることちゃんとやったで。」というアリバイなのである。

だがしかし、どんなモチベーションで儀式が行われようと、そのように流れる無意識を意識化させ「では私はどう死ぬのか?どう生きていくのか」と、問題提起する作用を「死」は生者にもたらすのである。

誰かの死を縁をして、自分の人生を振り返りこれからの生き方を再構成する。これが、社会的に生きるという事ではなかろうか。

だから、葬儀にまつわる様々な事象や既成教団との付き合いの中で、不満や不安、混乱が起きるのは、むしろ自然である。くりかえすが、それは「誰かの死」を話題にしながら、自分の人生を考えるという作業なのであるから。

そういう一人ひとりの「人生への問い」を意識化し、共に考える事が、僧侶の仕事であると私は思っている。また、既成教団の宗教者にはそう思っている人が大多数である。

「でも、そんなぼんさんに会えないじゃん。」

そう思うならば、まじめに聞いてみればいい。「あなたあなたの死をどう考えていらっしゃるのですか?」と。この問いに(一度聞いても答えになってない!と思われることもあるかもしれないが)、真摯に答えようとするか否かで、相手を判断できます。

そして、この生死の問いでの交流が成立すれば、戒名だのお骨だのお墓だのというグッズ関連の事は、二の次であることも同時に明白になってきます。そこからが、あなたの「宗教(既成に限らず生き方死に方という意味で)」の始まりです。

で、私は今日明日とそういう意味あいでの、通夜と葬儀を司祭するわけであります。

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    やはりこれは「仏教」だと思うんです。キリスト教の福音は、最後の審判の結果得られる「永遠の生命」で、死は「復活」の準備だ、というタテマエになっています。それが、どうも西欧合理主義=物質文明の価値観と深く結びついている気がするんです。葬儀が儀式化しちゃう根底には、合理主義への信仰があるように思う。だけど、本来「死」は不合理だと思うんです。

    single40

    2006/3/6(月) 午前 10:29

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    私は、葬儀が「死者のために」行われて良いと思うのです。本人が主演なのであって、あとは脇役。だけど、主演の演技が不自由だから(死んじゃってますから)ト書きで進行役がいる。それがお坊様だと。「死んだから主人公になれない」のは「すべて俗」で考えた場合で、俗以外の存在もタマには仲間にいれてあげようよ、の発想がないかな、と。俗はすべて「物質」で出来ていますけど、俗以外を入れてあげると、物質世界をはじめて客観視して、それで自分も「外から」考え直せるんじゃないかと。

    single40

    2006/3/6(月) 午前 10:36

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    おっしゃるとおり、死は不合理。うけいれるべきですが人間の脳はそうできない。「死の意味づけ」を求める。葬儀の主役は死者ですが、生者が死の意味づけを求める。聖とは極端な疫災と福音の二面性(両義性)をもちます。昨日の葬儀では私が進行者で「聖」となり声明や立ち居振る舞いで「死」に意味づけを行った(仏教というフレーム内での行動であるから聖で私自身が聖なるものではない)。それを解読できないから、坊主も参列者も死者も「俗」にとどまっちゃう。文化の衰退ですね。

    [ nazunayh ]

    2006/3/6(月) 午後 2:38

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    また社会的に言えば、「死のコンセンサス」が成立していない社会かもしれません。もちろん祖霊信仰においては成立していますが。それが物質のありようを規定するほどの力がないのが現状です。法や倫理や慣習を維持する基盤が分裂しているとき、確かなものは物質のみという唯物論に走るのは自然なのかもしれません。

    [ nazunayh ]

    2006/3/6(月) 午後 2:43

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    そこで、自分としてはこの際「死後の世界を肯定しちゃえ!」と思って居るんですよ。ドンキホーテは承知で、でも「死後の世界があったからといって、特に都合の悪いことはない」と。死後の世界を利用してお金儲けするヘンテコな新興宗教ではなくて、なんとか伝統的作法(笑)で、この物質万能の世と渡り合っていけないだろうか?と思ったりするんですよ。あまりにも今の世はひどいと思わずにいられないものですから。

    single40

    2006/3/7(火) 午後 7:13

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    仏教の始まりは、中陰思想などの輪廻思想の否定です。生まれ変わりとか来世という具体的な世界の存在の否定です。私の宗派は「浄土」という来世を説きますが、それは観念の来世であります。その意味では来世を肯定します。

    [ nazunayh ]

    2006/3/8(水) 午前 1:45

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    古代日本では、浄土願生者といって、現世否定来世肯定型の仏教理解が流行しました。この世は、苦の種が多い。しかしです。そこでしか輪廻からの解脱の道に出会えない。人間に生まれ言語を使用できるからこそ、仏菩薩に会える。私は釈尊の「さとり」は究極の人間肯定の道であると思います。死後の幸せではなく現世の支えをいただく。私もまたこのご縁がなかったら絶望の人生になったでしょうね。

    [ nazunayh ]

    2006/3/8(水) 午前 1:56

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