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スウィートbonbon(壽光寺の内緒話)

書庫仏教をカタル

お祭りの見世物小屋で覚えた。ヘビ女とかサル娘とかいうきわどい見世物小屋で、呼び込みのセリフであった。要するに、親がいっぱいヘビを殺したのでその結果、娘がヘビ女に生まれてきたという訳。

親と子は似る、というのは遺伝子学がなくとも経験で知っていたわけです。でもね。ちょっとおかしいでしょ。似るというなら、娘も同じヘビ殺しになる。

ここでポイントが「因果」ということ。ここに仏教の説く縁起が影響してるわけ。親が生き物を殺す(これが仏教の戒律に触れる)だから、子どもがその罪を受ける。こういう観念。でこれが過去を含むと、前世において〇〇だった報いに今、こうなってるという、説明になるわけですね。

このリクツ(言葉によって観念されるので言辞=エクリチュール)は、今生きている人が行為した結果が死後の世界に反映されるという死生観に基づき、それを過去→今、とスライドさせた(最生産した)ものです。

個人が人生をどうように生きるのかはその人の選択であるとし、その選択の結果はその個人が負うというのがわかりやすい自業自得の説明です。しかし、仏教では「個」という固定的なものを認めないのですから、これは誤った論理ですね。私たちは一人で生きているわけではないので、仮に個人の選択に見えたとしてもそれは、そう選択せざるをえない(しからしむる)という事なんです。ここに縁起の法が中心でないといけない理由があります。

この誤った因果感は、実に集団の利益を正当化できるわけですね。親父が極道やったから息子がグレた、なんて言って、息子との付き合いを敬遠できるんです。

ハンセン病患者はそのように説明されてきました。障害者もそのように説明されてきました。そして関西では深刻な問題である「部落差別」もそうです。排除する側(固定されていません。私やあなたがその側になっていることもあります)は、既成の事実(つまり常識)として正当化しているので、気付かない。

ではどこでその言辞が視えるのでしょうか。排除されたものには視えています。だから排除された側に無条件にシンクロすることで視えます。また、排除の正当性が疑われたときに見えます。様々な差別をなくそうとしたときに、むしろ差別事件や差別事象が起きるのは、その為です。

大阪府の大田知事が大相撲大阪場所で土俵に上がろうとした(差別を無くそうとした越えようとした)時に、「そういえば女性は土俵に上がったことがないなあ」と視える。そして、「女性を上げないのが伝統」という正当性をまとった言辞が見えてくる。

「差別とはそれを差別とは意識しないから成立する」というのが、私の経験上の事実です。また正当化された差別は「多数の利益」を装います。さらに、それは既成の文化や慣習を無批判に受け入れさせます。
そのような構造に、歴史事実としての「仏教」も入っています。

衝撃の事実ですが、言辞としての仏教は差別を生むのです。

たとえば「徳を積んで死者に回向する」という表現は現在でも既成仏教教団がHPで堂々と使用されています。しかしそのような言辞は、そう表現された瞬間に「徳を積まないものは、死者に対して何事もなしえない」そして「徳を積めないものには来世はない」と発展します。肯定の論理は否定を含むゆえです。

殺生してはならないという戒律(教団のルール)は、殺生することを教団外の社会に押し付けているわけです(その戒律を守りきるということは食わないという事であるなら、自殺のススメですね)。植物ならいい、自分が殺さなければいいというのは全ていいわけで、言い訳を重ねるごとに殺生する人を排除していく度合いが増していくことはご理解いただけるでありましょう。

そういう意味で、時代の中で「宗教的言辞」は、排除の論理として機能したきたし、これからも機能してしまうのです。

「戒律を守る」「修行する」などの仏教的言辞の世界は、社会から見れば内部でできあがった論理です。しかし言語は地続きですから、そんな宗教的世界でできあがっている言辞の構造を、外が「排除の正当化に」援用できます。正しい言葉聖なる言葉とすればするほど、排除に有効になってしまう。また同時に、それはそのまま僧侶や仏教者に返ってくる。しかし、多くはそのような現象に無意識です。だから、世間ではこうだが仏教ではこうだ。そして自分はそっちの世界で生きているので、完全平等の世界に生きていると錯覚するのです。

つまり、タイトルは仏教の因果論の誤用であると言い切ったとします。すると仏教者である私は、そこに組みしていませんという安全地帯にいる。だが、本当にそうでしょうか。そんなことありえないですね。そういう日本語の世界で現に生きていて、実際に排除があり排除の正当化が仏教を援用して行われているときに、「仏教とはこうです」という言辞は「仏教の真実、すなわち全ての人を救う」そのものを裏切っています。

ではどうするか。そこが私のライフワークです。

今、直観でやっているのは、新しい言葉を生み出すか(『O.Pローズダスト』で福井晴敏がテーマとしています)、フツーの言葉で排除の現場に生きるかということです。排除される人々(これは人間が煩悩の塊である以上、決してなくなりません)と人間関係を持ち一緒に生きる。そこで、言葉を紡ぐ。

完全平等を知るのはブッダのみ。だから阿弥陀仏の仰せであり名乗りである「南無阿弥陀仏」を仏さまの言葉として仰ぎつつ、排除の現場で生き新しい言葉を紡ぐ。その紡がれた言葉を浄土真宗ではお味わいというのだと思います。

排除の現場、言い換えれば「差別被差別の現実」を、実際的に生きる。そのために夜間中学のご縁が私にとって尊い仏縁です。もっとも仏教から遠い地点に見えて、実は最も仏教的な地点であるという事です。

  • 顔アイコン

    差別が何故いけないか?を考えますと、根本には「その当人にはいかんともしがたい」つまり解決不能であるからいけない、ということがあると思われます。出自や障害などは、もうどうしようもない。どうしようもないものはタダの「状態」であって、それを批判しても仕方がない、ということだろうと思います。つまり「個人の選択」の外であるということです。

    single40

    2006/4/11(火) 午後 1:47

  • 顔アイコン

    で、もしも「宗教的言辞」が「よく生きること」つまり「個人の選択の枠内で可能な範囲の行動の指針」であるならば、必然的に「排除の論理」を含むことになると思います。そうでなければ「個人の選択の範囲でない」こと、つまり「どうしようもないこと」を言うことになると、それ自体が差別になってしまう。となると「排除の論理」=「差別」とする定義自体がどうでしょうか、私には疑問がでてくる点となるんですね。

    single40

    2006/4/11(火) 午後 1:54

nazuna
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