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ウッダカラーマのいうところ。無我の境地ちゅうやつです。自己観察の放棄。
で、とりあえず老師に敬意を表して、シッタルダは話を聞き修行に入った。
静かに座禅する。絶食する。すると身体がカタリかけてくる。水、食物のイメージ。さらに満腹感を呼び戻す。それらを否定せずに味わう。ここがミソである。否定すればするほど囚われる。身体がカタルに任せる。
一日、二日とたつと、大小便も垂れ流しであるから異様な風体へと、シッタルダは化した。道行く人や子どもが「きちゃないなあ」「くっさあー」と敬遠する。中には反応のない(内に閉じこもっている)シッタルダを不審に思い、石をぶつけてくるヤツもおる。おいおいやりずぎだろ、とは思わない。痛みも気配も一過性。池に小石を投げ込んだ時のように、波紋が広がりやがて消える。
自然無為。起こるにまかせる時間。全ては一時的で過ぎ去っていくもの。それに同化していくシッタルダであった。
後は、座禅するたびにそのような深い瞑想状態にスイッチインできるように訓練する。
「おお、見事である。私が教えんとしたこと、それは後にユングなぞという学者が求めた心の最下層レベルに自らもぐりこむこと。すなわち無意識を生きるということである。」
ウッダーナカーラは、後継者としてシッタルダを認めた。
だがしかしだがしかし。シッタルダは問う。問わすにおれない。全ての人がこのような瞑想状態に入れば人類は滅ぶではないかと。それは「よく生きる」という当初の目的から逆立ちしてへんかいなあと。
「師よ、これで私は平安を得られた。しかしいかに他を救えるのか」
「そんなことはできん。」
「老病死は避けがたい。それは苦痛である。座禅三昧も消滅する。ならば現苦をどうして解決できようか?」
「それは虚妄であり夢幻である。無意識を生きて死ぬことこと、真の安らぎである」
「それでは私の求めるものはここにはない。私は去ります」
ま、簡単にいうとすれ違っちゃったんだね。シッタルダはあくまでも現実の生を生きるレベルでの「生死問題の解決」を求めた。それに対して「痴呆になっちゃえば幸せだよ。何にもわからんさんになってわからんさんの世界で生きれば幸せ」ときたんだね。
この修行でいえば、臭い痛む肉体を無視していいのかという問題。
シッタルダは当然、ここから身体性への関心へ向う。
「目を閉じあるいは眠っていても肉体は機能している。この身体を無視して心だけを扱うのはおかしいよなあ。よし、ちょっと身体について確かめてみなくては」と。
こうしてウッダガヤでの苦行に、シッタルダは向うことになるのでした。
「
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