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貝塚御坊。願泉寺の本堂。重文で改築中です。
お参りし解説を1時間していただきました。貝塚は家康朱印状がモノをいった全国でも珍しい「寺内町」です。岸和田藩内にありながら、不輸不入。つまり独立地域として安堵されました。
爾来、明治維新まで、願泉寺のまわりおよそ40haの境内、約5000人を擁する、宗教国であったのです。浄土真宗寺院として一時は本願寺が置かれた由緒もあり、かつ教義意外は上野寛永寺(浄土宗)の配下としてあおの支配を受けることで、住職・卜半氏は領主権を安堵されていきます。
そういう歴史の中で「寛文」年間に気づかれた本堂には、様々な匠の技が見受けられました。梁の材質から原産地、さらには白壁の基礎に使われた竹、焼かれた瓦の技術、籠彫りといわれる欄間や破風の装飾。
水平・平行垂直の出し方や、木釘の使用等々。全国的にもあまり例がないテクノロジーが沢山集積されていました。
謎が残ったのは、その飾りのデザイン。二羽のカモが咥えた木の枝を亀が咥えている図です。イソップの「白鳥が亀に世界を見せてやる為に空へ連れて上がるが、亀がしゃべった為に墜落して死んだ」というモノ。イソップはご存知のとおり紀元前のソフィストで、この話は中国に入って、鶴と亀の話になった。
で、カモになったのはと調べると、フランスのラフォンテーヌが書き直した事実が。それが日本に伝わるのは「伊曾保物語」の出版から。
これが元治年間なんです。で、この本堂の模様は寛文でその前。辻褄が合わない…。
私の推測。おそらくこのデザインはヨーロッパでは既に成立していて、模様として登場していた。信長時代から南蛮寺の建築等が行われ、それらは意匠として京を中心とした番匠・大工達を刺激したと思われる。宣教師のもつデザイン帳や生活用品の意匠を、目を輝かせて筆写する匠たちの姿を思い浮かべる。
学んだら、やってみる。モノになると判断したら実用化する。こういうことかと。
そうするとこれもまた、木造建築彫刻細工にかかわるテクノロジーと人の厚のはスゴさ!の証明かと。
基礎の竹が立派なのも驚いたデス。
また見学に行きたいと思っています。
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