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スウィートbonbon(壽光寺の内緒話)

書庫スポーツが好き!

誰かが泣いている。攻撃されている。困っている。そういう感覚は小さい子でも伝わるのであって。

「どうしたん?」と聞いたり。「何泣いてるの?」と慰めたり。そういう行為をする子を取り上げては賞賛し、「優しいねえ」「いいことやねえ」と認証する。


こうして、私たちは「いたわる」ということの具体を学び、自己の行動の中心に据えていく。「かわいそうやなあ」「辛いなあ」と、共感しあう場面をいっぱい作りだす。


幼年期から思春前期までは、共感と共体験を軸として人は生きる。ところが、その時期に「早期教育」と称して、塾・お稽古事通いが始まる。ウチの子だけが特別になる、という親の価値観で。

学校は勉強を教えるところではなかった。政治も学校にこない子どもを学校にこさせることが、長い間課題であった。その時学校は、みんなが集まる共同体社会であった。


そこが崩壊した。学校で「○○をしよう」が成立しない。80年代の半ばからだったと思う。放課後の予定が入り、バラバラになって子どもが束ねられない。


共感のない集団で、群れの中の安定を求めること程難しいものはない。だから子ども達は闘う道を選んだ。いじめるのはそのためである。誰かをいじめることで成立する共感。「デブ!」とののしることに参加することでできる集団。

だいたい集団の中の安定が必要な時期に、個を生かせて健常に成長させようとするには、その集団が与える安定以上の精神的安定を与える存在が必要なのである。溺愛、親バカと言われるぐらいその子にかかりっきりの人間が。

そこまでの準備のない家庭が、集団から子どもを切り離したら。子どもは闘うしかなくなる。いじめっこはファイターである。


で、長谷川の防衛戦。両まぶたを切って壮絶な12回戦であった。スピードパワーとも一級品であるが、この日は手数では圧倒されるシーンも。しかし回転力とタイミングは絶品であった。苦戦の原因は倒しにいったこと。ジャブをついてスピードで圧倒する方が長谷川らしいと思うが。

さらに今回、4R8Rに採点の公開という初の試みがあった。それで負けている方が発奮しリードしている方が守りに入るという現象も起きて、観客には良かった。

さて、子どものファイトに話を戻そう。流血してTKOの危機が長谷川にあったが、それはレフェリーが止めるから。さらにその判断基準はドクターのチェックである。反撃不可能な状態なら止める。


いじめが起きた時、そういう判断は誰がするか。現場を司るものである。子ども同士の関係をジャッジする権限は担任である。すべからく担任は、ファイトする子どものそばで経過を観察する義務がある。それが仕事である。

その担任が授業をするのはいいが、教科指導が主となっては、ジャッジはできない。ここに矛盾があるのである。だから、

平成の世の中で実態として「いじめ」や「子どもの人間関係の歪み」が多発しているのなら(事件報道はされるが増加しているのかどうかはまだ不明である)、担任制度を触ればいい。子どものファイトのジャッジを作ればいい。


さらに。格闘技はタイムが短い。つまり全身全霊をこめて闘うのは、他のスポーツとの比較で言えば、瞬発力で持続力ではない。わずか12,3歳の子がそういうファイトを毎日数時間35週間も続けられない、はずがない。いじめが日常化し把握しにくくなるのはそのためです。ルーティンになると儀式化します。そしてインパクトがいじめる側から失われる。一人本気なのはいじめられっ子ですから、無茶苦茶消耗スルのが道理です。

その緊張状態に疲れて自殺願望がでるんです。いじめられたという行為や事実の1つが死につながるんじゃない。保護者や教員は、学級や学年で子どもが行動するときの、そういう空気を察知できます。いじめられている子は、過緊張や過弛緩を見せますから。そしていじめっこ達は必ずかったるそうな笑いを浮かべます。集団との同化という感動すべき体験がルーティンになってますから。そういう空気。

ボクシングで言えば、筋書きのある八百長試合です。勝敗は決まっているので、かったるい。

世の教師保護者は、ボクシングをもっと観戦しないとね。最も科学的でかつ洗練された「野蛮」ですから、そこには多くの生活へのヒントがあるんです。

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    陰口を叩いたり、複数で一人を攻めるのは卑怯だと教わり、一対一の喧嘩をした子は、殴られた痛みも殴った痛みも知るけれど、その経験も無い今の教師や親達に、卑怯者の心苦しさや痛みを知るのは難しいでしょうね。

    [ bet*mo*u ]

    2006/11/15(水) 午後 3:22

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    いじめ自殺が起きると、必ず校長が謝罪します。なんで担任が出ないのか?と思っています。私の知る限り、校長には教師に対する人事権も懲戒権もボーナス査定も給与査定もありません。権限がないのに責任があるのはおかしな話だと、民間企業ですから思ってしまうのです。責任を言われるならば、責任を果たせるだけの権限を持たせるべきじゃないのかな?素朴な疑問です。

    single40

    2006/11/17(金) 午後 6:50

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    ↑すいません。脱線の話ですね。

    single40

    2006/11/17(金) 午後 6:52

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    いじめている側に緊張感がない、ということに気がつかないと。そこに緊張感が生まれるには新しい刺激、たとえば教員や他者の介入によって攻撃されたと感じる。燃えます。でいじめはより深刻かつ潜在化する。 1対1の人間関係を築くには集団でのトレーニングが必要なんです。そういう集団主義的な生活指導が現場では成立しない状況。ここを何とかしなくてはという思いです。校長が責任を負う気なら、集団づくりを指示すればいい。そのうえでなら責任はとれます。

    nazuna

    2006/11/20(月) 午前 10:11

nazuna
nazuna
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