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門徒さんと50回忌の法要をしました。
1957年。それは戦争が終って12年目のことです。
夜、夜間の先生たちと自分たちの小学校時代を語りあう。「昭和二十年三月生まれが兄。ぼくが二十三年やなあ。あれ、という事は記憶にあるあの時期は、戦争が終って10年もたええなかったんやなあ。」
十年なんてついこの前。ついこの前まで空襲の炎の下を逃げ回っていたんやなあ、と三人で沈黙。
ご承知のとおり、仏教の儀式の中心は「読経」。つまりお経を読むことです。それも黙読ではなく音読で。それは、先達の声を聞くということなのだという実感を、この頃深めています。
私たち真宗のものは、蓮如上人以来、「正信偈」という親鸞さまが「教行信証」に書かれた偈文を「お朝事」に勤める習慣があります。それは、親鸞さまの声を聞くことですね。
その親鸞さまは「法然さまのおおせのままに」と、法然さまの声を生涯お聞きになられた。正信偈には「本師源空明仏教、わたしの真実の師である源空さまが仏教の本質を明らかにされた」とあります。
さらに「如来所以興出世・唯説弥陀本願海、如来(お釈迦さま)が世にいでたもうたのは、ただただ阿弥陀さまの真実の願いを私たちに説かんが為でありました」といただかれておられます。
お経はお釈迦様の声を聞く。そしてその声は阿弥陀如来というさらに過去世のブッダの声を聞かせている、そのアミダブッダの声が「南無阿弥陀仏」である。
つまり宗教に帰依するとは、誰かの声に耳をかたむけその声の示すところを真摯に求めていこうとする生き方なのであろうと思われます。
だとすれば、誰かの死んだ日を心に刻み、その日が巡り来るたびに読経するということは、先立っていかれた人の声を聞こうとする儀式ではないかと想うのです。
死者を追悼するというのは、死者の声を聞くということでありましょう。拡大して大胆に言い換えれば、人類の歴史を一人ひとりの生きられた「来し方」として、自分の人生に置き換えて味わうという事といわせていただきましょう。
ああ、そうなんだなあ。と50回忌の読経をしながら、目覚めさせていただいた昨日でありました。
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会話をするという事は、何時になっても大切だという事ですね。
[ bet*mo*u ]
2006/11/28(火) 午後 0:20
MOGUさん。宗教も難しく考えずに、先に生まれ生き死んでいった人との会話であると理解すれば易しいですね。
2006/11/29(水) 午前 3:05
月参りの度にお軸を変えたり、置物を変えたり、季節の花器を変えたり・・母が共なら知った故人の逸話や思い出を語り合います。こんな時間が故人の記憶を蘇らせる時となりその在りし日の言葉を思い出す時となります。
2006/11/29(水) 午後 2:15
父母が居て、じいちゃんばあちゃんがいて、曾祖父母がいて、さらにその父母が居て、、、その結果自分がある、と思うと、実に奇妙な感慨にとらわれることがあります。えんえんと、ようも続いたもんだなぁ。けど、その挙げ句が自分というのはかなわんなぁ、、、などと思うのです。素朴な感慨にすぎないのですが。
2006/11/30(木) 午前 10:32
私が子どものころ、社会派ドラマではよく「俺は歯車の一つにしかすぎない」とか「とりかえがきくいてもいなくても同じ存在だ」と否定的にあつかう、妙な自由主義的言説が流行していました。ほかの誰かともとりかえられない存在になろうという意志はりっぱですが、それは今はそうではないという否定を含みます。仏陀の教えは、今のそのままのあなたが皆と同じく縁の集合体であると同時にかけがえの無いあなたであると、語りかけます。いっぱいもらって今の自分。それがかなわん時といいなあという時がありますねえ。
2006/11/30(木) 午後 11:06
そうですね。いいなぁ、有り難いなぁと思うときもあります。かなわんなぁ、ああヤレヤレ、と思うときもあります。不思議なものですねえ。
2006/12/1(金) 午後 3:48
何度かこの記事を読み返させていただきながら、仏教はやさしいなぁってつくづく思います。一番辛いのは愛する人とお別れすることですが、偲ぶ気持ちがあれば、声を聞くことができる。救われます。
2006/12/16(土) 午後 8:16