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あまり無理な注文はしないように。nazunaは念仏者ですから。それ以上も以下でもないので。 さてさて、こちらの物言いがコミュニケーショ不全を起こしたのかと反省するのですが、またまた厳しいつっこみをいただきました。 「死生観」も「人生観」も人それぞれですから、いろいろな意見があってもいいのですが、明らかに錯誤であると思われることは退けます。で、とりあえず1つだけ。 世界は、人間が存在してはじめて存在します「人間の側からは左右できないダルマのはたらき」など存在しませんというご意見。 私は毎日酸素を吸って二酸化炭素をはく。そしてその酸素が程よく存在する、大気は私が生まれるよりも前に存在していた。さらに、科学という、ダルマをある条件に限定して観察実験した上でダルマの一部を論理化したもの、によると。なんと人類がまだ地球に存在しなかった時代があるという。人間が存在しなくても世界はあったんですね(ま、この目で見たわけではないので最後は信頼ですが)。 植物は二酸化炭素をすって酸素をはくので、私とは縁起によって支えあっているのであるが、昨今人間が己が煩悩を具足するために森林を滅ぼしている。そうすると二酸化炭素が過剰になっている。つまり私が息をすること(生きていること)で、人類を滅亡に追いやっているのである。むろんあなたも。 だからといって、「よし!それでは、私は今日から二酸化炭素をすい酸素をはいてやる」とダルマを左右しようとしても無理です。唯心論は仏教では「有見」と称されて退けられます。人間の脳が作り出す自分たちにとって都合のいい幻想ということです。 「諸行無常」がダルマの本質、それをダルマに依って生み出され生かされていながら倒錯する存在の我々人間は、固定的にとらえたり私の智恵知識で因果関係が読み取れていると「我」をたてる。しかしそれは錯誤であるから、「諸法無我」。 「生まれたものは死ぬ」ことが自然(ダルマのまま)。それを受け入れ難い我がある。だから人生の様々は全て苦のタネとなっていく。お釈迦様における人生問題は、この「一切皆苦」の解決。解放でありました。 解放されダルマとの一体感を回復した状態を「さとり」といい、それはあらゆる苦のタネが滅ぼされた境地であり、静かな命の喜びに満ちているので「涅槃寂静」といいます。 これが仏法の基本認識、四法印といわれるものです。
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仏教をカタル







せっかく記事にしていただいて大変申し訳ないのですが、そのようなことは承知の上でのお話なのですが。実は、nazunaさんがいろいろなものを見ていると思っておいででしょうが何も見ていません。脳がつくった幻想です。ちなみにこちらをどうぞhttp://blogs.yahoo.co.jp/miginejike/47181842.html
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2007/5/1(火) 午前 1:50
ちなみに、犬に二酸化炭素の存在を知ることが出来ますか?わたしのいう人間が存在しなければ世界は存在しないとはそういうことです。大気もわたしが大気と認識してはじめて存在するのです。そして、仏陀の宇宙観とわたしたちの宇宙観は明らかに違います。100年後も違っているでしょう。つまり、自然というものが存在していたとしても、それについて考える必要は一切ないと思うのですが。それを思想として取り入れようとするから、時代によって変質するのではないですか。
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2007/5/1(火) 午前 1:58
人は、唯一、死を自覚する生き物です。だから、正気ではいられないのです。戦争も起こすし、殺人もするし、過ちを犯します。みんな、狂ってしまうのは仕方ないことです。そして、そのことを解決、解放することなど不可能なことです。でも、それで良いとおもいます。わたし達が奇跡の存在であることには変わりはないですし、社会を維持するためには、そういったものをみんなで抑制しなければならない、ただそれだけで良いのではないですか?
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2007/5/1(火) 午前 2:03
これから納骨です。後ほどゆっくりとですが、おっしゃっていることは「意味論」というものですね。私の元の学問は「言語学」でして、Fソシュールからチョムスキーまでが守備範囲です。で、脳科学へと関心をもった。それから白川静師匠の漢文学と酒見賢一氏の孔氏伝で発見し、卒論のファンタジー論(フィクションとは何か?)へもどるというものです。少しは語れると思いますので記事、拝見させていただきます。
2007/5/2(水) 午前 10:49