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真宗のお坊さんは、在家信者のリーダー的存在ですが、決して頭脳明晰で何でも知っている訳ではない。
また、うさこちゃんが言ってるように「知らない事は知らない」でいいと思うので。その上で。問いがあるということは素晴らしいとおもうし、ありがたいなあとも感じますので、サンガ継続。
「師の教えを守り受け継ぎ実践すること、そしてそれを人に伝える」というシンプルなことでいいのでは?といううさぎ好きの小6さん(仮にうさこちゃんと呼びます)。
阿弥陀さまのみ教えを、親鸞さまのお取次ぎで伝達され、それを日々いただいているので、mnazunaは異論はないですよ。それでいいしそのとおりだと思います。
そのことと宗派や仏教の地域による偏差の存在とどう関係するのでしょう?
「お釈迦様や、百歩譲って、親鸞様の教えを純粋に伝えているお弟子さんは 現代には一人もいないのですか? いないんでしょうね。ぐっすん」と涙ぐんでおられるのは、何故でしょう?
「純粋」と言う言葉に乙女の潔癖性を感じるのはオジサンの悪い癖でしょうか? 親鸞さまは法然さまからの相承で、法然さまは善導大師の相承。そして高僧方は皆、創生されずに「阿弥陀様のお慈悲、御徳」を誉め讃えられた。その阿弥陀さまの教えを説いてくださったのがお釈迦様。純粋といううさこちゃんの評価軸は他者と共有できるもの(客観的な説得力を有する)ですか?
モノサシを勝手に設定して、そのモノサシの妥当性も吟味されないままに、「純粋な弟子は一人もいないんだ(決め付け?)ぐっすん」、と泣かれても困ってしまいます。
釈尊の教えは経典となって(文字情報)広がりました。面受の関係が基本ではありますが、師匠弟子という相伝のみでもやはり偏差はおきます。経典は説教記録で聞書きです。miginejikeさんがいいことを書いておられるので、http://blogs.yahoo.co.jp/miginejike/47181842.html
うさこちゃんはそれも読んでみてほしいのですが、人間の感受作用には個別の偏差があります。「人は見たいものを見、聞きたいものを聞く」のです。釈尊に好意をもって聞くものと悪意を持って聞くもの、ゆったりと思考するものと緊急の救済を求めるもの等、話し言葉は場に依存するので表現が変わる。「対機説法」というものであるが、これが文字資料となると矛盾を内包する。
だから、テキスト批判が起きる。経典の真偽や時代性、さらにどのテキストが本来化という本家論争。仏教同士も論争になる。そういう議論からウチが本家という宗派も実際ある。
nazunaは、経典八万四千種類分の入り口があると考える。目的は同じ(成仏)であるがルートが違うという認識。並立可能だから、大乗。むしろいろいろな解釈や理解があるほうが健全だと思う。ただし、四法印(前回の記事)に矛盾してはだめです。それは「外道」であり「非仏説」で、捨て去る。nazunaの場合はそういう観点から、同じ仏教徒でも理解に苦しむ事は正直あります。織田無道という真言宗の坊さんがTVに出て占をしたり無答であった「霊」について語ったりしていたのには閉口しました。
姿はお坊さんですが、全くの非仏説に生きておられる人もいる。そういう人とは同席したくないので、親睦団体である「仏教会」には出席しません。そういうヒマがあったら、真宗の勉強をしています。
まあしかし、その宗派やその布教は既に私における成仏道ではなくなっているので、関心はあまりないというのが本当のところですが(苦笑)。
うさこちゃんの言うとおり、「ちょー末法」の世であることは、師、親鸞聖人も「末代濁世の悪人」と自覚されていますから。戒律はあっても誰も守らない時代とお釈迦様が予想なさったとおりの世なので、ますます「絶対他力」の法が尊くありがたく思います。
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お邪魔いたします。わたくしごときのために、ご丁寧な記事を書いていただき有難うございました。ただ……すっかり謎が解けました、とはならないです。すみません;;要は、人である以上、師の教えを100%受け継ぐことは不可能ということでしょうか?どの宗教を見ても、宗派が存在するということはその証明なのでしょうね。で、疑問なのですが、末法の世でみなさんはぜんぜんOKなのですか?しかたないじゃ〜んって、感じであきらめていらっしゃるのですか?
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2007/5/6(日) 午前 1:41
でしたら、お坊さんが教えてることは「形だけ」なのですよね?でしたら、お坊さんいらないと思うので、全員廃業されたらいいと思うのですが?それに、絶対他力なら、お坊さんがお葬式しなくても、救われるんじゃないのですか?法名をもらって弟子になる必要ってなんなのですか?何もしなくていいじゃないですか?ますます悩みが多くなってしまいました。残念です。
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2007/5/6(日) 午前 1:44
ご訪問感謝です。あの、わかっていただくために書いているのではないので、セッションしているつもりです。あなたからの波動を受けて私が共鳴したり新しい波動を発信したり。そこんところよろしくデス。「それに、絶対他力なら、お坊さんがお葬式しなくても、救われるんじゃないのですか?」そのとおりですよ。救いは貴方と阿弥陀さまのお話ですから。
2007/5/6(日) 午後 10:08
うさこちゃんが書いておられたように、正像末という時代認識は大乗仏教内での時間意識ですから幻想です。ただ国家も含めて意味論における「共同幻想」は事実化しますね。そこで末法の時代という時間意識の内実が問題になります。
2007/5/6(日) 午後 10:25
自然の一部でありながら突出した脳内世界を持つ人類は、外部を知覚することで内部(脳内世界)を形成しデータの蓄積量を概念化して「時間」を生み出しました。お釈迦様在世より遅れて生まれた。地域もはるか東に生まれた。この感覚は成仏道としての仏法を真剣に求道する者において切実です。がしかしそれ自体もまた我らの脳内世界が描く基準と偏差の一例なのであります。
2007/5/6(日) 午後 11:52
脳は脳内世界自体を客体化できず、他者の脳内世界に仮託するのです。記号論理学でいうところのコードとは仮託された他者性のことなのです。私たちの脳は自己を他者の脳に投影することで他者の脳を経由して自己像を形成します。それは私の側から言えば私の無限の複製化です。岸田秀はここの現象を切り取って「唯幻論」を組み立てました。
2007/5/7(月) 午前 0:01
人間の脳と言語、コミュニケーションとは通じることではなくコピーの流通(交通変換ともいいます)であるというのが言語学の最新の共通認識です。自己像の押し付け合いになるかそれとも共鳴するか、あるいは像ガスレるかは、偶然です。「私の思うところのあなたがあなた」そうでないと苛立ち苦しく悲しい。 これを仏教の古典的表現で申しますと「生死流転の凡愚、愛欲の海に帖没し苦悩す」となります。さてこれらのヨタ話を前提にして、末法意識に迫りましょうか。
2007/5/7(月) 午前 0:08