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皆さんは、仏教を学ぶのにはいくつかの約束があって、それを守らなければ教団から追放されることをどう思いますか?
私はそれは大事な事だと思います。複数の人間が場を同じくする。ましてや衣食住を幾日か共にするときには、お互いが不快になったりあるいは全体に深刻な事態起こすことを避けるために、予めルールを守ることを確認してから仲間にするのは当然だと思うのです。
公立学校を例に取り上げてもそういう約束やルールを守らなくてもいいんだという風潮が盛んになっていて、先生方を困惑させています。携帯電話の扱い、髪の毛を染めること、等々。意見が分かれて中々学校側の指示がとおらないのです。
仏教もお釈迦様が直接面授されて仲間となさった外にも、面授された弟子が自分の弟子をひきつれてどっと人数が増えたりしましたので、それぞれの人となりを確認できないまま自称「仏教徒」が氾濫しました。それは社会における仏教やお釈迦様への評価を下げる危険であり、かつ自立した個によるゆるやかな信頼関係に拠る連帯という組織のありようを破壊する可能性を帯びます。
そこで、仏道を修行するもの(サンガを自覚するもの)には「戒律」を与えられたと思われます。問題はそれが十分条件なのか必要条件なのかという理解の違いで於きます。
私は、お釈迦様が男女の性的関係を禁じられたり家庭をもつことを禁止されたとは到底思えません。ほぼ裸体に等しいスタイルで野原で就寝することも厭わないサマナというこの時代の新しい思想家のスタイルでは、男女が共に行動しかつそこに肉体関係や恋愛感情が生じれば、「煩悩を滅ぼす修行」という当初の目的から逸脱する可能性は大ですし、トラブルの原因になる。だから禁じられた。
学校に例えれば学びの目標と、学校集団の規律を確保するために、設定されたのが「戒律」であるという理解です。従って、「女犯戒」を守り結婚しないで修行するというスタイルは、原初のお釈迦様の教団の有様に忠実であるということですから、尊敬いたします。けれども、それが成仏の条件であるとは思わない。
お釈迦様が「どうせそのうちに死ぬんだから生きる意味なんぞ考えてもしかたがないし死後の世界を思ってみても仕方が無い」という態度であるとは思えない。性的関係と家族否定が条件ならば、仏教は一日も早い人類の滅亡が解決であるとしていることになりますもの。「苦行とは究極自殺ではないか。よく生きるための修行が自殺であるというのは本末転倒・因果の否定だと喝破されて苦行を止められたお方ですよ。中道を歩めとおっしゃるのに、在家を否定することを成仏道とされるはずがないです。
カウンセラーとなるなら、ソレを極めるためならば、家族を捨てて時間をできるかぎり観察と思索に使える身軽な身となるべきですというような、サンガの目差す方向性の示唆ではなかったのでしょうか?そういう意味で真理を突き詰めようとする姿勢や切実さの上で、戒律を保つサンガに厚い尊敬を覚えます。しかし、だからといってそういうサンガのお坊さんが全て成仏し、破戒無戒の在家人は成仏できないとは思えません。乞食により生活し仏陀になられるのであれば、それは乞食に答えた無戒破戒の衆生のおかげではありませんか。
日本の仏教界への不満は、法施と財施に依って交通している僧侶と門信徒の相互依存関係そのものを評価できないことにあります。「出家」という形式スタイルやその思想性を貫徹する事が尊いのではありません。その形式で獲得されるものが尊く支えた多くの在家者に分け与えられていくものであることが尊いのです。在家の側にそういう交通感覚がヴィヴィッドにあるようにパフォーマンスできていれば、出家価値があります。しかし、交通感覚がほとんどなくつまり一方的に奪われたり一方的に与えているとした時、「出家」の内実が問われます。結婚して家族がいるのに何故出家ですか?と。
私見ですがその声に、多くのお坊さんはきちんと答えていないと思います。私たち真宗でいえばその逆で、交通感覚が失われれば「出家でもないのに何故お坊さんぶるのですか?」となるでしょう。
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