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ええと、死んだ人は帰ってきません。生き残った側から言うと、喪失になります。 ですから、「因果」で今を見るという考え方は、結句、死者の声を聞くという行為であると、nazunaは思っているのです。 今、生きている人の声だけで、全てを図ったり決めたりしない。そういう思考法です。私という体系に取り込めない『他者』存在を前提にする。 そういうスタンスでの「見通し」や「ものの考え方」の体系を「浄土の真宗」と名づけられたのが親鸞さま。 関係が持てる他者ならばそこに、同一化の欲望が生まれます。しかし、一旦切れてしまった、あるいは過去世の彼方から(今を生きる私から隔絶した地点から)、反対に私を体系化するはたらきがある。 是は倫理や道徳では、説明できません。論理も反転しなければ展開できません。だから、「不可称不可思議不可説」なんです。 困ったことです。これではフリーすぎて学べない.そこで、一部を倫理化する方向で言論します。これは釈尊の梵天勧請と同質のジレンマです。踏み込めば社会関係化して取り込まれ取り込むという事態になる。かといって踏み込まなければ、意味失う。 まあ、そんな難儀な課題を考える力はないので、他者の声を聞くということでお取次ぎをしています。それは葬儀や年回法要など「死者儀礼」にかかわるからこそ有効なのです。
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仏教をカタル





祖母となり、懐かしい匂いのする孫を抱いて、ふと亡き祖父母達に思いをはせていました。リレーされる命。他者の声は聞こえなさそうで、案外身近に聞けるもののようにも思えてきます。難しいことはわかりませんが、生かされていることに感謝せずにはいられない気持ちになります。死者の声と未来の人の声、耳を傾ける心は同じなのかも知れませんね。
2007/5/19(土) 午後 10:53
ご無沙汰しております(-人-)ナームーこのたび、nazuna大師様の広大無辺な教えの一端を頂戴したくコメントさせていただきました。お暇でしたら、一読していただけると大変うれしゅうございます(-人-)ナームーあ、葬儀ですけど、親鸞様って大切に思ってたのでしょうか?どうでしょうか?大切に思ってらしたからこそ、お弟子さんであるみなさんは葬儀をされてるんですよね〜。
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2007/5/20(日) 午後 11:35
死者の声を聞く事があります。亡き祖母が父が語っていたと同様の言葉をテレビで、本で、また仕事場での会話で聞きます。都度、どきっとしてどれも心に染みます。自分から距離を少し置いた目で自己や環境や仕事を見た時、さぞかしあの時、祖母は父はこう思ったのだなと気づかされます。
2007/5/24(木) 午後 3:35
aikoさま、うさこ如来さま、Kiriyonさま、お待たせしました。本日より復帰です。
2007/5/25(金) 午後 7:11