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「浄土の行者は愚者として往生す」
全く人間というやつは、どうしようもない。そのどうしようもなさを、絶えず喚起し自覚せしめられることによってしか、「ヒト」は倫理性を保ち得ないというのが、我が浄土教である。
東京都足立区では学力テストで区立学校に順位をつけ、それによって学校予算も傾斜配分されるそうである。「成果主義」という名の愚行である。
部分が全体を表す、という事例は「科学的思考」の前提である。ニュートンのりんご、がいい例である。それは的確に全体像を反映する部分であると、皆が賛同して定説となる。自然科学は追実験が可能であること(反復性)により、同一結果の積み重ねの予想により「法則」とジャンプする。
さて、教育の成果は「学力テスト」で代表されるとすることは「法則」化されるか? 全ての学校で同一で反復可能な条件が提示できるかが、キーである。
そんなことは不可能です。生徒も先生も違うし、建物も気温もちがう。精密に同一条件を設定すること、さらに反復可能な条件設定はできない。
学力テストとは、どんな内容であれ、マーカーの1つとして用いられるのが科学である。指標であったり、全体のある要素をチェックする必要があるときの手段なのである。
それを、憲法や改定なったばかりの「教育三法」に規定される、「教育目的・内容」の成果を表す、とするのは、どう考えても正気の沙汰でない。
まあ思い込みと大衆心理の利用であろうが、その結果として、とある学校が「先生が答えを誘導する」ことや「特別支援」の必要な生徒のテストを累計から排除して、成績トップをとったそうだ。これを「不正」として新聞が書いたわけ。
我が寺では、娘や連れ合いが「人間のすることは200年前も今も変わらんねえ」と、改めて「愚者としての自己」を喚起されたわけだが、記事を見ていて気になったことがある。
それは「不正」とした上記の2つのうち、先生が答えを示唆したことをより問題にしていることである。
マーカーとしてテストするのではなく、「教育成果」としてテストするのならば「テストする」ことも教育内容であり時間である。ならば、誤りを書いた生徒に「そこは違うからもう一度よく考えてごらん」と指摘することは、立派な指導であろう。24時間教師であるなら、そうすることこそが教師の鑑である。
「学校の成績」というように、成績=成果であっていい。でも、それは一度教えてわからない生徒に「お前はわかってない」と知らせることではない。教える側がマーカーとしてテストしているという常識があれば、「テスト行為」自体が教材である。
念仏の徒としては、後者がタメ息大である。「特別支援」のいる障害のある生徒を平均からはずすのなら、テストをする授業時間にクラスから排除される。そういう生徒はふだんから「別学級」で授業していると思われるかもしれないが、世界ではむしろ同一学級における支援が主流なのである。
様々な人間が同一空間に存在するという認識が、社会性の基礎である以上、学校の教育機能の重要な一つであろう。それが当たり前のように無視されることを「成果」にしてはいけない。
で、提案ですが、この事例を教材にすることを、足立区にはお勧めします。テフテフ県ハナモゲラ市の学校のお話にして、道徳の時間の教材にしてみたらどうでしょう。
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発想が「マークシート方式」だと思うんです。偶然だろうが操作だろうが、とにかく点数が取れればいいという考え。本来、教育は知識と過程を考える訓練で、その修練自体が目的だと思うんです。テストは、いってみれば他流試合みたいなもので、己の力量を試す機会ではあるけど、そもそも他流試合に勝つことを目的とする道場もないし、それでは修練にならない。「結果さえ良ければ」という発想は、今の世の中を反映しているのでしょうが、それでは人材は育たないだろうと思うのですがねえ。
2007/7/9(月) 午前 11:38
まあどちらも困ったもんですねえ。少なくとも義務教育レベルでは、知的好奇心に富んでいて、興味や関心をもったことについて、調査の方法や道筋をより多く生み出せる能力または依頼できる人間関係を築く力を標準していればいいと思います。タイガーマスクのトラの穴抜きでいきなりプロデビュー、こんな教育の発想は困りますね。
2007/7/16(月) 午前 2:06