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12月12日は、門信徒総追悼法要。今年往生された仏様の生前を偲びつつ、仏法聴聞へのお導きを味わわせていただく集いです。ご家族に念仏相続のご縁をつないでいただくために、案内状を送ります。メインはもちろん、お聴聞ですよ。 真宗には「追善」はありえない、ていうか、仏教にありうるのか??? 私たちの脳は二分法でしかはたらかないから、生と死を分ける。分けて遠ざけるのだ。それがこの社会。 その延長上でしかとらえないから、死んだ人は可哀相ということになる。生は光。死は闇だ。 そういう可哀相なものを助けてやりたい何とかしたいから、追善する。せめてあの世でいいことがあればという願い。その切なさは十分理解するのだが。 しかしそれはまるごと、生死はセットという真実ではない。さらにさらに、そこでは「死」はあくまでも人事なのである。 その迷をはらしてくださる、はたらきが念仏であるなら。 〜年忌という表現。忌むという言葉もまた、生と死を分断する思想である。で、今回このような文章を、参加の皆さんに配布し、開式前にお話をさせていただいた。 はじめに… 「忌」という言葉を何気なく使っています。全国のお寺や仏教者、お坊さんも。そもそも、この言葉は「忌む」ということを表します。それは、生きているものの世界と死んだものとの世界を分けた上で、「死を避け、死の連鎖、感染を防ぐ」ために、世間をはばかることを意味します。忌引きとは、どうぞお休みくださいというのではなく、死の穢れを伝染させないためにでてくるな!という意です。 仏教は、生死は一重と説きます。分けられるものではない。だとすれば、年忌という言葉遣いや考え方は、迷いの一相であると言わねばなりません。しかしまた、そのような迷いの思考しかできないのも私の真実の姿でありましょう。 迷いを離れて覚りに廻入せらるるはたらきを「ご本願」と申しますから、私たちが真実信心に帰依せらるる中で、このような言葉遣いを解消しあるいは超えていけるのではなかろうか、と思われます。「追悼」とは追っていたむという意です。後のものが、先の仏に導かれて、仏様方の声に耳をかたむけていく「法会」でありたいという用語であります。お同行・御同朋方との了解の中で、いつの日か「忌」に用のない歩みをと、願いつつ。 本願寺も「忌」を使用している。その中でわが寺からの始まりをあせらずに、皆と共にとの願いであるが、皆さんいかがであろうか?
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浄土真宗をカタル



この数年粗供養のお品に付いていたお浄めの塩の代わりに、小さなメッセージが添えられることが多くなりました。
実家では、先代のお坊さんの教えがあり、私自身はお浄めの塩を使うことはありませんでしたが、問答無用で撒かれることもありました。ただ多くの人は「何となく」で気に止めていないように思います。
御遺族に寄り添える文化を、お寺から発信して行かれること、とても意義深いことと思います。
2007/12/15(土) 午前 10:39
「私たちの脳は二分法でしかはたらかない」から「生死はセットという真実」から離れて「忌む」ようになる、というご説明。思い当たることばかりです。最近は、曖昧なものを許さないと叫ぶ人が増えていますが、それは「忌み」なんですね。ついつい「忌む」行動に走りがちな最近の自分を思うと、また恥ずかしいばかり。。。
2007/12/28(金) 午後 5:11
お二人の言葉に励まされ、迷い多い1年を越してまいりました。感謝感謝です。合掌。
2007/12/31(月) 午後 11:36