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(写真は遠く離れた父の往生を聞いて、13世住職が合掌した御本尊) 「いやあこんなとこで」 「ああ、あなたも郵便?」 「いえ、ゆうちょのATMで」 「…その後、どうですか?」 「………。(涙、涙)」 「また、話ましょう」 私は、黙って肩を撫でて去った 最愛の子に自殺された親である。なぜ、どうして、と問うでも答えはない。 できればわが命を投げ出してでも生かしてやりたい子の方から、捨てられた親である。 子のもちものを見ては 涙にくれる。 子は絶望の中で人生を放棄した、「生きる=善」というものさししか持ちえない私たちには そうとしか思えない。だから「可哀そう」。どうにかしてやりたい! できるならわびてわびてわびてと思いつつ、もし本当に生き返ってきたなら、父や母はどのような恨み事を言われるのであろうか?どう責められるのであろうか?と。 一転して自らの罪にもおののく。 こういう事態につけ込む輩もいる。「あそこは家系や」「信心が悪い」と裁く人。親がいかん、いやいまどきの若者は。 「○○さんとの出会いで救われた」「あのとき死のうと思っていた私を、母は泣いてとめてくれたのです」世間の美談さえ、刃となって全身を切り裂く。お前のせいだお前のせいだ。なぜなぜなぜ。 そういう母に、わたくしは無力である。 25年前、教え子の親が死んだ。棟続きの狭い文化住宅で9つの子が背のとどかない台所に立ちいつ帰るかもわからぬ父を、食事を作れるかもわからない父を、5歳の妹と待っていた。 やがて、数年後父は病に倒れ私たち教員や町会長、民生委員児童委員、それに役所の福祉事務所の人々は、「子どものために」父子を引き離し、父を入院加療させ子どもを児童相談所の施設に預けた。私もその決定に若造ながら賛同していた。 寒い冬。お寺の電話がなる。校区に住む同僚の先生から「××の家が燃えてる!!!とにかく私は現場へいく」ドキドキした。 翌朝、学校へかけつける。同じ文化に住むかつての教え子ら焼け出された人たちが、町会の集会所に避難 していた。会いに行くとオカーチャンは顔を見るなり、「センセー、みんな焼けてしもた」と号泣した。 一段落して、火元はかの教え子の家だと聞く。何か映画を見ているような感覚の中で、「父が病院を抜け出して」帰ってきていたこと。さらに、ドクターストップのお酒を飲んで眠っていたのか、焼け跡から焼死体で発見されたことを聞く。 彼の葬儀は福祉葬。役所が斎場でお骨にする。どうやりとりしどうなったのか覚えていないが、私は彼の葬儀を斎場で行った。葬儀には二人の姉妹が施設の先生に手をひかれて参列。遺体とのお別れは見られる状態でないのでできない。読経の中、つぶらな瞳で見つめられた。 心が折れた。今、3人の娘の父である私は自信をもっていう。「ぐうたらだろうが病気であろうが親は親。子どものことを思わぬ親などない」と。 離してはならなかった。父娘を。事故なのか自殺なのかは不明だが。彼を絶望に追い込んだのはまぎれもなく私たちの「善意」という気まぐれ。「可哀そうだ」から施設できちんとした暮らしをさせるという論理。 そして娘は二度と「おとーちゃん」と言えなくなった…。「ああすまなかった」と思えれば、自分を責める気持ちがあれば、まだよかった。 そうじゃない。これは何?私には責任ないでしょ。何の感慨もなく事務的に彼や彼女たちを見送る、第三者であり続けた自分がいた。娘たちとその手をひき施設に戻る先生の、そのつながれた手だけを見ていた。 取り返せない罪。逃れ難い業。本当の絶望とは、絶望すら担えない私があるということだ。かろうじてそのことをかみしめるために、父のお骨を引き取った。 そうして、やっと私にも阿弥陀さまの声が聞こえてきた。聞いていたつもりで全く聞いていなかったことも同時に知らされる。 「罪を重ね業を深め、そしてそのことすら自覚できず彷徨い、人生を終えて流転するものよ。背くお前を抱かずにはおれない命の親がここにいいる」と 他力本願は、私を浄土に往生させる。 他力本願は 私を仏に育て上げる 他力本願は 絶望の鬼の私を「泥中に咲く白蓮華の花」だとみそなわす 他力本願は 今ここの私を そうして「にんげん」にしてくださる 他力本願は 南無阿弥陀仏と念仏の声となって丸ごと私にとどいておられる 教えも念仏も知らず命を終えたあなた。私にはあなたのゆくえがわからない。悲しいけれどわからない。 如来がはたらき一足先に仏様になって、あとからいく私を笑顔で迎えてくれるんだろうか?それとも「可哀そうな」あなたこそが、むしろ仏となって今ここに私を許し抱いてくれているのであろうか? 愚かな私にはわからないけれど、そんな奇跡があるだろうか。 「もしも疑いが消えなくとも大丈夫。あなたが仏になるのだから、あなたが彼を救えばいい」 そうであったか。地獄にいようと、どんなに私を怨み100度殺してもあきたらないと思っていても、浄土の仏になったればこそ、私がお前を探し出す。 今度は知恵と慈悲の仏であるのだから、丸ごとのお前を丸ごとに抱きしめてお前の怒りや苦しみをすべて引き受けてやる。 どちらにしても安心じゃね、と祖母が写真の中で笑う。この祖母も一人息子を15で失った。 かのように。冒頭のおかあさんとこんな私が、「にんげん」として生かされていく道は、この他力本願の道しかないのです。 だから「他力本願ではダメ」という用法を見聞きするだけで胸が苦しくなるのです。悲しくなるのです。 申し訳ないのですが、赤裸々に心をさらけ出せば、穏やかに語ることなぞできないのです。それもわたくしの凡夫である証でしょう。
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住職、涙チョチョ切れる


