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間接民主制をとり、選挙で代表を決定し立法府を構成するというシステム。学校の授業で、このシステムについての考察を行うことは重要だと思う。
私たちの世代は高校の「政治経済」というコマでかろうじて学んだが(新海先生感謝!)、教員になってわかることは、それはその先生の問題意識と時代(70年安保)のおかげであったようだ。何せ、全共闘さんが暴れておられたし。 わが母校では〈高校全共闘〉が、バリ封、バリケード封鎖をして69年の卒業式には警察が導入されたのだから。 数年前。「地域活性化」「再チャレンジのできるシステム」→「構造改革」 そして「郵政民営化」選挙。 さてそこで新たに構成されたのは立法府で、それぞれを実現するどういう法案が提案審議されあるいは立法されたか、私たちは知っているだろうか?いや、毎年どのような法案が成立しそれによって社会にどのような変化を生むかという予想や、実際について、誰が評価しているのだろうか? つまり、政策評価である。メディアも私たちもまことにもって恥ずかしいのであるが、「政策評価は次の選挙で」という風に踊らされていないか?否、議員の中にもそうとしか理解できていない空気があるのではなかろうか? 選ぶ場面の議論と、選ばれた表同士の議論。よく考えてみるとどちらもプランなのである。で、ドウは内閣。じゃあその結果の測定評価は? みなさんジャッジメントは裁判所って習いませんでしたか?で三権分立で相互チェックで暴走しない政治システムになっていると。 ほら、気がついたでしょ。プランとドウは同時並行。しかし裁判所によるジャッジにはタイムラグがある。大阪府の財政破綻を仮に立法の問題(府議会)や、行政(知事)の問題として、訴訟を起こしたとして結審したときには、当事者の議員や知事そのものはもういない。下手すりゃ原告も死んでいない。 夕張もそうだし、国の財政もそうで。プラン・ドウに対するシーをどこかにおいたまま戦後60年来てしまったのである。ではそれは誰の仕事であるか。そうである。有権者の仕事である。 そして。それこそがもともとのジャーナリズムの発生である。政治権力に対する評価やチェックを行うが故に、「報道の中立」が政治・宗教・思想において謳われる。 さて、そこでデータが登場する。政策と行政の効果や結果を数字やグラフで客観提示して評価する。そこには論理性も必要だし、解析におけ詐術を許さない感性もいる。つまり評価活動とは最高の「人間力」が要求される。 今一番身近で影響力の大きいメディアはTV。さてそこでは「素人にもわかりやすく」「庶民にもわかるように」と、●○さんという「専門家」を招いて解説してもらうことが流行している。政策効果の測定にあたるデータやそれに基づく違った立場からの論議がなされることは、実は1つもない。 関西では人気の「たかじんのそこまでイって委員会」でも、出演者がはっきりと自分の立場を明言しバトルをするので、有権者自身の評価を代弁していると錯覚できるのであるが、実は評価ではなくそのときの気分の代弁なのである。発言者のキャラが立ってはいるが、客観的なデータ提示じきちんとした学問的な裏付けを示して、ことの長短を示すということにはなっていない。 以上のように、〈評価〉を置き去りにして〈気分〉というものを主流にすえたのがメディアにおける評論となっている。今回の自民党の総裁選報道にもそれは顕著で、麻生太郎というキャラに焦点がいき、彼のプランとドウについての評価はない。一般庶民がないのは当たり前で「これからどうするかを注目」でいいのだが、メディア・ジャーナリズムが過去のデータを示す必要がないと判断するところに、私たちの社会が陥っている問題がある。政治や経済が問題なのではない。 キャラに政治権力を渡した社会は、過去においてことごとく、滅びていることは事実である。 そしてそのキャラによって改革を進めるということを大阪府は是としているのであるが。 で…。大阪府に蛇口をしぼられたうえで、わが夜間中学を支えている市が「財政危機」と新聞報道された。就学援助どころではない。 「お金がないので夜間中学が維持できません」と行政に言われたようなものである。つまりつぶされる危機にまで直面しつつあるのだ。 (写真は、新任教員の研修の一環としての交流会)
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