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スウィートbonbon(壽光寺の内緒話)

書庫学びの家

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(自ら学びつつ生徒募集、つまり歴史に埋められている仲間をほりおこす生徒たち)

前回のつづき

当事者であるかないかというのは、政治や評論にとっては実にたいせつなことである。


法律をつくる、という行為においては想定された当事者性はあっても、肉体を伴いあるいは笑い涙するという実感はない。リアルではないのだ。


井上雄彦「REAL」という作品は、車いすバスケを題材にしながらそのことを凄まじい画力で教えてくれる。


最近、知己を得た「フリーターズ・フリー」の主催者の一人、生田武志氏は現在も西成で肉体労働をしながらホームレス支援活動をされているのだが、彼がいう「キリスト教における隣人性の発見」にもそれに通じるものを感じる。


教育行政と言う言葉のくくりでは、漏れ落ちていくもの。それこそが「生物学的な人が、社会的な意味で人間になっていく」という意味で、常に〜ingである「教育」である。


アメリカでの格差社会を超えていく営みとしての「コミュニティスクール」や「オルタネイティブ・スクール」は、=運動であり、=政治であり、=生徒と教員や地域社会住民の人生 でだ。



そしてその試みは遠回りではるけれども、ヒスパニック系住民やアジア系住民への偏見や差別を、される側する側の両側から越えていこうという意思に基づいて、「健全なアメリカ社会」を志向している。



夜間中学生の教育権というものを「戦争被害」「義務教育」「労働・生存権という人権」のデルタで解いていくというのが、リアルな実存である。



だから、 存在が優先するのであって、「存在の規定」なぞ、くそくらえなのである。



弁護士出身の橋下徹の思考は真逆であろうが、このリアル感をとらえてほしい。

公平を期するが、文部省、歴代大阪府知事は、教育をそういうリアルにとらえる気すらない。ないから担当の役人にまかせていただけである。そこに自らメスをいれようとしたのは橋下が最初である。

生徒があるから学校がある。学校があるから教員が要る。生徒が学校に通えるように就学援助制度を設けることができる。さらにはそこから簡易給食費をひねりだして支給する。

これらの起源は全て、教会やお寺であるように、これらは法体系的に正しいとか、財政的に正当かどうかという、政治用語でできたものではない。


私たちが私たちの国家や社会をどう感じるのか、今はここにいない人々からどんなバトンを受け何を子孫に渡すのかという極めて真っ当な「人間性」の問題である。(続)
nazuna
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