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(貞享元・1684・2227年下付・壽光寺蔵 親鸞伝絵・中段【信心諍論】の図 如来よりたまわりたる信心) 原始仏教において、お釈迦様は徹底して論理的に思考された。それは最終的に「思考すること」そのものを対象とし、言語と脳の関係を解明されたと思われる。 (見出しまでは難しいですので, 哲学や思想に興味のない方は飛ばしてください) したがって仏法(ダルマ)を悟るという「智慧」の教え、すなわち「発想」や「思考」そのものの在り方が修行内容である。老病死についての言説、あるいは実感。そのような日々生起する「苦」は個々の内部すなわち脳内世界の問題であることが明らかになったから(苦諦)である。 「苦行」を捨てられた、といことは「体験」を信頼しないという態度表明である。 「色―識」の作用の中に煩悩というフィルターが働いて、真実の法を受け入れるのではなく感受器官により再構成されたものしか「事実」にできないという、脳のはたらきを批判したわけである。体験の積み重ねによる経験の歴史性(集諦)そのものを批判し無化するわけである。 しかし感受された地点においてあるいはそのように「感受作用」をもつ生物として生まれ合わせているという地点において、はたらきかけるダルマの中に両者は存在するのであるから、その地点を観察者として立ち会えば「真理は人に届いている」と観察される。 ある種の論理矛盾であるが、フィルターがあるから歪められるがまたフィルターがあるからこそ感知される「真理」を「真理」そのものとして受け取るにはフィルターを除去するしかない。(滅諦) 論理上の結論はゆえに、「煩悩を滅する=フィルターの除去」ことで真実世界を受け取ることができ、そのとき今私たちが「世界である」としている知覚されたものとその意味を構成する言語世界が一気に崩れ去り、新たな世界に生きてある「味」を味わう。これが悟りであり、人類というカタログや歴史というアナログから完全に解放された「ダルマと一体の自己」を生きるのである。 魚は水の中でしか生きられない。したがって普通の魚はそれが全世界であるという「生」を生きてあるので、「水」という客観的認識がない。つまり「水の中の魚」を観察する地点でしか両者の関係を述べられない。 如来蔵思想、本覚思想とは、観察者の位置でのみ成立する言説である。さて問題。 「生まれて死ぬ」最中のものが、そもそも純粋客観にたって自己の苦悩の原因を見極めて解決できるのであるのなら、観察者たりえたとき=ブッダではないか? そうすると、このテーゼは「ブッダになりえたときそもそもすべての人にはブッダになる可能性があることが真理だ」ということになり、自己撞着を起こしている。ブッダになる可能性があるというのは、ブッダでないものの言説である。 大河を泳げているつもりで気がつくと岸が見えず、疲労と不安で溺れかけてもがいてる自分を想像してください。このとき観察者は、「おぼれているあなた」を認識するでしょうし、「智慧」があればその事態を正確にしることができます。すなわち、流れはそうは急ではないとか、もう少し流されると川幅が狭まるとか。事実を正しく認識すればするほど「救助の可能性」が見える。船が出せる、いや緊急だから飛び込んで救助する、いや大きな網があるからそれで救いあげてやれば、等々。 で、あなた。自らがおぼれていながら(助かろうと懸命で)、「うんどんなにおぼれていても必ず助かる可能性があるのだ」と認識できるのかどうか? 仮に認識できるとする。ならばそのような智慧の持ち主が、「なぜ今おぼれている」のか?目の前でおぼれている人の事態を正確に認識して救助することが可能な力をもつもの自身が、「おぼれている」ことが矛盾であろう。 そうでないなら、「おぼれていない」という地点に自らを置いているとしかいえない。ちゃんと泳げていると認識しているわけ。で、ちゃんと泳げているからちゃんと岸にあがれる。必ず誰でも岸に上がれる可能性があるのだから、このままここで泳いでいけば岸に100%たどりつくはずだという思い込みを生きているんであって(これををノーテンキと申しました)。 どちらに岸があるのか?岸辺にたどりついたとしてどうしたら岸に上がれるのか?自分であがるのか?ひっぱりあげてもらうのか?後ろから押してもらうのか?何ひとつ確定したものをもたないでも平気であるということは…。 はい、おぼれて沈むんです。100%。 浄土教はこれを解決した。論理の断絶と感情の連続で。曰く、 |
浄土真宗をカタル


