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(写真は曾祖父が阿弥陀様の願に遇わせていただいた、荷坂・宝仙寺) なかなか意見交流ができない。 ここまで来て、nazunaは、他社の辞書にも同様の「衆生がそれに頼って往生を願うこと」記述があり、これは「広辞苑」の影響もしくは、辞書記述者が同一であることから、起きていると推測していた。 さらに、広辞苑について、おそらく「また、衆生がそれに頼って〜」という「それ」は阿弥陀仏であるという理解で書かれた説明ではないかとも、推測していた。つまり、 という理解です。つまりこちらの意図が通じないのは、編集部や校閲者のイメージの中に、 という体験主義的な思い込みがあって、そこから出られないゆえにではないか、と思われるのです。 これをゆっくり理解していただくには、少々煩雑ではあるけれど、真宗教義を述べねばと思って、再度メールをしました。こんな感じです。 「大乗仏典の中に「仏説無量壽経」がございます。この御経の漢訳にはいろいろと種類がありますが。私どもは康僧鎧訳を用います。 さて、このお経は「釈尊が阿難というお弟子に、世自在王仏のもとで菩薩道を歩む法蔵菩薩が「衆生救済のために」長い時間思惟した上で、四十八条の願を建てしかもそれを宣言してその願を成就するために長い間修行され、ついには見事に願を果たされて「阿弥陀仏」となられたというものがその大要です。 この完成された阿弥陀仏の四十八願の中で、迷いのうちに生死を繰り返す(輪廻転生)衆生を必ず救う(つまりもう2度と輪廻させない。今回の生死が最後にする)ために、阿弥陀仏の清浄土に、全ての衆生をたった一人でも漏れることなく必ず「往生」させるという願いが、十八番目の願、「至心信楽の願」です。
・説我得佛、十方衆生、至心信楽、欲生我国、乃至十念、若不生者、不取正覚、
これが浄土教の中で、王本願・御本願といわれるものです。この願の主体は法蔵菩薩=阿弥陀仏です。唯除五逆、誹謗正法 この願の解釈の中で、「至心信楽、欲生我国」も含めて、阿弥陀仏が主語であることを徹底していったのが親鸞聖人で、衆生の往生の因となるこの願全てが阿弥陀仏の心であるから、衆生の心は一切関与しない(自力心の否定)のであって、「至心も信楽も欲生も」全て如来(阿弥陀仏)より衆生に与えられる心であると示されたのであります。この徹底した仏力・仏の力用との理解から「絶対他力」という理解が生まれて、この十八願を「他力本願」と称するわけです。」 私の成仏の因が「他力本願」なのであって、つまり成仏に関してはこちらの仕事は何にもない、ので、広辞苑の「また〜」以下は、何度もいうが、 |
住職、涙チョチョ切れる


