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(祖母が育った堀江の町。空襲で焼けて寺は無い。しかしこの生活空間で葬儀をと考えてみてほしい) 大阪では、江戸期の規制から、市中の真宗寺院は「道場」であるから、一定の大きさ以上にはできなかった。 市中ということで、僧侶が暮らしているならば借家が寺院であることすらあった。 よほどの金銭的に恵まれた門徒集団でなければ、明治以降に土地を購入して建て替えはできなかったから、本堂の大きさは、近代でもあまり変わっていない。だからお寺で葬儀はしないのが一般であった。 落語「らくだ」でもわかるように、火屋で火葬するということが慣習化していた大阪であるから、「復古神道」系が主導権を握って、アナクロな政策を主張した明治初期には、火葬禁止令なども出されて、困惑させられた経験もある。 土葬では埋葬場所が確保できないし、衛生上?いけないので、このばかげた政策は撤回される。いずれにせよ、通夜がすむと葬列をつくって遺体を墓地まで運び、そこで葬儀は行われた。 火葬では火屋(遺体をマキで焼く場所)のそばで「葬場」をこさえて、そこで行われる宗教儀式であった。 そこでは「オンボウ」と差別的に通称された、三昧聖(さんまいひじり)が遺体を引き受けて世話をしつつ宗教者としての役割も果たした。三昧聖は東大寺の院における編成を江戸期に受けて一定の宗教的地位を確保しつつ、地域においては中世以来の慣習を再生産する形で、遺体処理にかかわる既得権を主張し、地域再生産(ヒト・モノ・コト)に役割を果たしていた。 近年、近世歴史学における「身分的周縁」論において、その社会的構造が明らかになってきている。しかしそれと、差別の問題は別であって、浄土真宗は、もともと「死穢」に鈍感な宗派であこと、さらには「カワラ」門徒を組織していることから、「穢き宗旨」と地域によっては宗派そのものが差別された。 (ここでは深く追求しない) そういうこともあって、葬儀となると埋葬にいたるまで僧侶がつきあう。臨終勤行⇒通夜⇒納棺勤行⇒出棺勤行(家・地域)⇒路念仏(葬列を組み墓地・火屋近くまで歩くときの念仏)⇒葬儀⇒火屋勤行 となる。 そうすると「葬儀社」の仕事は主として遺体の運搬と行列のしつらえである。明治期に「駕篭屋」「口入屋」が葬祭業に転業したのは、大名行列やを作成するノウハウ、運搬をショー化するノウハウがありかつ明治維新で失業したからである。 大阪では、カゴ○とか○カゴと名乗る葬儀社が今でも結構あるし、葬儀社のことを「カゴヤ」と呼ぶ習慣も残っている。 三昧聖のほうは、明治以降に宗派に編成される道を選択し、それぞれが「墓寺」となって現在に至るケースが多い。 ところで、前述した経過から、農村部においては宗旨にかかわらず墓制によって葬儀は規制される。したがって、葬儀社が発達しない地域もある。「冠婚葬祭」が地域共同体を再生産する行事になっている地域、地域共同体が分解し氏(ウジ)の再生産、もっと狭まって家(イエ)の再生産、」さらには直系夫婦親族(アヒヤケ)、そして直系家族のみと、葬儀の主体は変化している。 葬儀社と僧侶の役割や関係も、その葬儀主体によって変化を余儀なくされるのである。 「おくりびと」の世界はある位相を切り取って典型化することに成功しているのだが、葬儀主体の意志や心情に沿うことばかりではない、歴史的な所産である文化・宗教体系を背後に抱えていることも事実である。よって一般情報では流れない、いくつかの現実を点描することも、「葬儀」を思考するときの材料となろう。
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浄土真宗をカタル



こんにちは。大変興味深く読ませて頂きました。大阪市内には真宗寺院に対して、そのような規制があったのですね…。
京都にも“カゴ○”という屋号の業者がありますが、そうした経緯から転業したものの名残だったのですね。
小子、20代の頃、滋賀県の寺で、ゆくゆくは後継者に…と、法務に従事していたことがありました(結局その寺は辞しましたが…)。その折、滋賀県にはまだまだ古い葬儀の習慣が残っていて、後世に伝えるべく映像化すればいいのにな…と思ったものです。
2009/3/4(水) 午後 1:01
私の高校の同窓生、マドンナが滋賀の門徒家で県会議員の嫁なのですが、彼女が一番びっくりしたのが、葬儀まわりを主人の代理でしたときのことだったそうです。
大阪の町中に生まれ育ったので、葬儀を村が全て取り仕切り行い、葬儀社が無く、皆で御勤めする通夜と葬儀がびっくり!だったと。
2009/3/5(木) 午前 0:54