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(傳 板倉・福因寺 覚信尼像)
さて、釋覚信さまの話。
残された親鸞さま「ご消息」と恵信尼文書によれば、親鸞さま終焉の地は三条冨小路の宿坊、尋有の坊舎善法坊であった。尋有は親鸞さまの弟で天台僧である。そこでの親鸞さまは社会的には「無戒名字の比丘」であって、天台僧ですらないわけである。
ここに真実の意味での在家僧侶があったわけである。制度上の僧侶でもなくあくまでも自意識の上での僧侶でありつまりは俗であるが、「成仏道」を歩むものである。
ならばその同一地平上に「自意識の上での尼」でありそれは在家のまま仏道を歩むものである存在が生まれるのは必然であった。
日野広綱と婚姻し覚恵を生んだ覚信は、まずその結婚において「いとこの子どもどうし」であるから、日野一流に親鸞さまの血統を再結合させている。
母、恵信の場合には三好家と日野家のアヒヤケ関係になるが、それぞれが所領をもち子どもを分割する形で信蓮房や益方入道、小栗女房などは母について越後にいる。一方末娘の覚信は京都の叔父の家で父と同居しているわけで、広綱が死去したのちはこの家で覚恵は育っている。
いやそれだけではなく、覚恵が戒名に「尋有」と名乗って叔父の後目として坊舎を相続していたことは確実である。
そうすると、覚信は「在家僧侶にして、出家僧侶の母」であった。親鸞門侶帳に恵信の名があるように、「親鸞家」の中で不十分ではあっても「真宗」が相承されていくのであり、教団の基礎は男女つまり夫婦単位と考えることができる。
その覚信さまは親鸞さまがご往生ののち、母恵信尼が「またあの御影の一幅、ほしく思ひまゐらせ候ふなり。」と御影を求めている。千葉乗隆師が推定なされたように、これは西本願寺蔵「鏡の御影」のようなものであって、「鏡の御影」は専阿弥陀仏という専門の画工によって生産されているから、覚信が門徒の求めに応じて、絵像の発給にかかわっていたと推測される。
また、恵信尼文書では「この文を書きしるしてまゐらせ候ふも、生きさせたまひて候ひしほどは、申しても要候はねば申さず候ひしかど、いまはかかる人にてわたらせたまひけりとも、御心ばかりにもおぼしめせとて、しるしてまゐらせ候ふなり。よく書き候はん人によく書かせてもちまゐらせたまふベし。」と、ある。
ここの「この文」とは二人が結婚し子をなすきっかけとなった文であるから、聖徳太子示現の文。つまり一般に「女犯偈」といわれるもの。この偈は親鸞さまが高田門徒に書写させておられる。親鸞門流つまり聖(在家僧侶)を「仏教」に位置づける証拠。おそらくそれの原文を親鸞さまの妻である恵信が所有していて、それを娘覚信に譲り清書してあなたが持ちなさい、というのだから、
覚信こそ親鸞さまの後継者である
と母が認識していたことになる。善鸞・如信が関東に向かっていることを(義絶についての歴史的な判断はおくとして)勘案すると、親鸞夫婦の子育ての中にいわゆる「念仏相続」という観点があったのではないかと思われる。
さて、覚信は小野宮禅念と再婚し、禅念所有の大谷の地に墳墓を改めて堂を築くのであるが、のちに二人の子である唯善が覚恵の子つまり甥の覚如と、この大谷の廟堂の住持職を争う事件が起きる。この事件の前提を考えてみたい。
まず親鸞さまの遺骨である。葬儀後の遺骨は関東門弟に分骨されたがその大部分は覚信の手元、三条冨小路の坊舎を廟所として管理されたのではないか。親鸞木像には遺灰が塗られているという伝説もあり、1262年以降の門徒の墓参りの対象であったと推測する。
そしてそこで覚信は坊主の母として生活し覚恵は叔父の後継者・天台僧として暮らしている。青蓮院門跡の門下として天台僧という地位を息子に確保させ、親鸞門徒を束ねる位置にたつ。やがて再婚した小野宮禅念の土地を「墓寺」にし、覚信直系の子孫が「留守職」つまり住持することを関東の門弟承認のもとに就任するのである。
再婚した家族はどこに住んでいただろうか? 恵信の手紙に引っ越しのことがないことや「慕帰絵詞」(覚如の伝記)で覚如の生まれが三条冨小路となっていることから、一族はこの坊舎で生活していたといえる。覚信を中心にモノ言えば、「肉食夫帯し子どもを生み育てる」凡夫のままで、出家の母かつ自身は「尼」意識をもった内面の僧侶であったのだ。
(傍証であるが、覚如と留守職を争った叔父唯善は、院宣を請うた際に、「父は仏法に帰依し相伝の大谷の地に門弟らと力を合わせて一草堂を建立した」という主旨のことをいう)
このように、覚信=善念夫婦もまた「在家僧侶(自意識において)」であり、かつ覚信に親鸞門徒団の参拝会所主で、求めに応じて絵像を下付するとなると、全く後世の門主と同じでああろう。また、青蓮院門下の天台僧として出家するという習慣の嚆矢に覚恵がなっているのであり、教団が確立し自剃刀が行われて「真宗僧侶」が誕生するまでの、伝統の基本形がここにあることになる。
しかも、夫・禅念の内方ではなく、自身が全面に出ているのであるから、親鸞教団の在京リーダーはまぎれもなく覚信である。
以上が、nazunaの論証であるが、するとなぜ?WHY?この姿が隠れてしまったのかが問題となる。それこそが蓮如教団のパラダイムを崩さないようにそれ以前を語るための、ためにする理論である。いかに「ためにする」議論であったか。次回はそこを追求する。
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