'''親鸞におきては、ただ念仏して弥陀にたすけられまゐらすべしと、よきひとの仰せをかぶりて、信ずるほかに別の子細なきなり。念仏は、まことに浄土に生るるたねにてやはんべるらん、また地獄におつべき業にてやはんべるらん。総じてもつて存知せざるなり。たとひ法然聖人にすかされまゐらせて、念仏して地獄におちたりとも、さらに後悔すべからず候ふ''' ご讃題は、『歎異抄』の第二条の一部。 関東の門弟たちが京都まで押し寄せて「関東で親鸞さまが説かれた道以外に、往生成仏の道〈教え)がああるのか、あるのなら今ここで教えてほしい」と迫られたらしい。 それに対して、ある意味すげなくある意味確かな信心の中で、そして言葉はあくまでも厳しく、「知るか!」とおっしゃったのであった。 nazunaはこの条のお領解を、30代半ばで梯和上よりいただいた。大野師のご讃嘆を聞きながら、そのことを思い出していた。大野節炸裂!!!で、本堂は爆笑のうずであったが。師の如来への報恩の意は厚く、それがうれしいひと時である。 このご讃題のあとが、nazunaもよくいただく御文で、 「そのゆゑは、自余の行もはげみて仏に成るべかりける身が、念仏を申して地獄にもおちて候はばこそ、すかされたてまつりてといふ後悔も候はめ。いづれの行もおよびがたき身なれば、とても地獄は一定すみかぞかし」とあるので少し付け足して大阪弁で意訳してみると、 皆さん何をそんなにカンカンになったはりますねん。この親鸞には、ただ南無阿弥陀仏と念仏することしかおまへん。法然さまが落ち込んでる私に、「阿弥陀さまが、あなたこそをお目当てとなされておたすけになり、お浄土へまちがいなく参らせると仰せですよ」と教えてくりゃはった。それをそのままいただいているだけでおます。ほかになんかこんかとリクツもへったくれもありません。また、「念仏は、本当に浄土に生まれるタネ(因果の因)であるのかどうか」と言われても、そうであるのかまた誰かがおっしゃるように地獄に落ちるような業であるのか、もうそんなことはまとめて言うたら「わしゃ知らん」ちゅうことです。「あんたそれ、法然さんにだまされてますで!」とおっしゃられ、そしてそんとおりで私が法然聖人にだまされて念仏し、結果として地獄におちてしまったとしても、全く後悔することはありまへんな。なぜ?とお聞きになる。なぜと言うたら、この親鸞自身の能力で努力してさとりを開いてブッダになることができるのであれば、「ああだまされて念仏して地獄へ落ちた、悔しい」となりまっしゃろ?けれども、私は自分で修行努力もでけへんどうしようもない愚かもの。悪を退けるどころか気がつけばそっちへ進んでいってしまいます。わかっちゃいるのにやめられへんのです。だからもともと往生成仏とは全く縁のない身であって、好んで地獄を住みかとする人間ですから。(法然さまの教えしか往生成仏の道はない!)
この生の言葉で語られた二種深信に、大野師は前半は、遠江の禅勝房へ法然さまがおくられた文をひかれて法悦を語られ、後半は涅槃経のアジャセ太子を重ねられた。 終了後におうかがいすると、サッカーをしておられる娘さんは、今なでしこリーグ2部の〈伊賀FCくノ一)で活躍中であるとか、大野師とはサッカー話題でももりあがる。また、林家染二師の落語会でもお目にかかったことがある。長く生かされていると不思議のご縁を想うことが多いなあ。 お聴聞はええなあ。合掌。
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浄土真宗をカタル



本当にご聴聞は我が為ですね これからも念仏を心にかけて頑張ります
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2009/4/22(水) 午前 9:22
宝珠さま
真宗は「お聞かせにあずかる」宗旨であります。お聴聞のご縁、案外あるようでないのです。わが寺でお聴聞できることを何よりもの喜びといただきます。
2009/4/22(水) 午後 2:08