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浄土真宗的な感覚、というものがある。このごろ、つくづくそう思う。 何せ、話が通じない(コミュニケーションが成立しない)ことが多いのだ。 その代表的なものの1つが、「念仏」。 ナモアミダブツと 声に出して称えることは、そもそも「念仏」ではない。仏を念ずというのであるから、「念仏」は仏のことを心の中で今いらっしゃるように姿・形を思い浮かべることである。 観無量壽経という経典は、サンスクリット原文が見当たらないので、現在では中央アジアか中国での成立が疑われるものであるが、その中で、おシャカさまと対話するイーディーハ夫人に、おシャカさまは、アミダ仏の浄土へ往生するのに必要な心の力として、真実のサイズのアミダ仏の姿を思い浮かべる心の力を備えることを示される。 佛告阿難.及韋提希.此想成已.次當更觀.無量壽佛.身相光明.阿難當知.無量壽佛身.如百千萬億.夜摩天閻浮檀金色.佛身高.六十萬億那由他.恆河沙由旬.眉間白毫.右旋婉轉.如五須彌山.佛眼如四大海水.青白分明.身諸毛孔.演出光明.如須彌山.彼佛圓光.如百億.三千大千世界.於圓光中.有百萬億.那由他.恆河沙化佛.一一化佛.亦有衆多.無數化菩薩.以爲侍者.無量壽佛.有八萬四千相.一一相.有八萬四千.隨形好.一一好.復有八萬四千光明.一一光明.■照十方世界.念佛衆生.攝取不捨.其光明相好.及與化佛.不可具説.但當憶想令心眼見.見此事者.即見十方一切諸佛.以見諸佛故.名念佛三昧.作是觀者.名觀一切佛身.
仏、阿難および韋提希に告げたまはく、「この想成じをはらば、次にまさにさらに無量寿仏の身相と光明とを観ずべし。阿難まさに知るべし、無量寿仏の身は百千万億の夜摩天の閻浮檀金色のごとし。仏身の高さ六十万億那由他恒河沙由旬なり。眉間の白亳は、右に旋りて婉転して、〔大きさ〕五つの須弥山のごとし。仏眼は四大海水のごとし。青白分明なり。身のもろもろの毛孔より光明を演出す。〔大きさ〕須弥山のごとし。かの仏の円光は、〔広さ〕百億の三千大千世界のごとし。円光のなかにおいて、百万億那由他恒河沙の化仏まします。一々の化仏にまた衆多無数の化菩薩ありて、もつて侍者たり。無量寿仏に八万四千の相まします。一々の相におのおの八万四千の随形好あり。一々の好にまた八万四千の光明あり。一々の光明は、あまねく十方世界を照らし、念仏の衆生を摂取して捨てたまはず。その光明と相好と、および化仏とは、つぶさに説くべからず。ただまさに憶想して、心眼をして見たてまつらしむべし。この事を見るものは、すなはち十方の一切の諸仏を見たてまつる。諸仏を見たてまつるをもつてのゆゑに念仏三昧と名づく。この観をなすをば、一切の仏身を観ずと名づく。 しかし、皆さんはブッダをごらんになったことはあるだろか?それにはブッダに遇わねばならない。私はあったことがないので、この意味での念仏は無理だ。お経の文言から想像するだけであるがそれでもなかなか無理である。だからでけへんなあ、となるのだが。 だいたい、世間の人は「何かをがんばってできるようになること」はいいことだと無意識に思っている。なので、これがでけへんのです、と結論すると、人気が悪くなる。ここでまず第一のコミュニケーションギャップ。 もちろん、想像力の豊かな人もいらっしゃるので、観無量壽経のアミダ仏を絵にしてくださった方がいて、それが現在の絵本尊になっている(立ったまま空中に浮かんでいるお姿なので、住立空中尊、といいます)。また、仏の像として彫塑で像にして下さった人もいる。けれどもそれらは、厳密にいうと自己のイメージではなく他者の借り物であるから、念仏したことにはならない。 ところで、私たちが何かを想い浮かべたり思い出すということはどういうことか、と改めて考えてみよう。すると、映像を思い浮かべるということは、そのときの出来事や自分とのかかわりのある事象を想うというこであることに気づく。 何がしかの感情をともなった記憶の再現、といいうのが念ずるという行為なのである。すると仏を念ずるときに、映像を明確に描くことは無理でも、仏と自己とのかかわりを思いそのときの感情を再現する、ことは可能である。 ところで、この意味での「念仏」を実践しようとすれば、その前に多少は仏教についての知識や信仰が必要になる。念仏するためには、先だって仏教を学ぶ必要があるということになる。だって、再現されるべき仏にかかわる感情や記憶が存在しなければ、再現のしようがないではないか。 こうして「念仏」が仏のはたらきやそもそも仏となる意味などいろいろなことを思い浮かべることになると、さてさて、「なんだ念仏ってむつかしいじゃん」ということになるわけだ。 それを、概念的に坊主が易行(かんたんな行)道といっちゃうから、言う坊主と聞く大衆のイメージと感情が交わらなくなる。これが第二のコミュニケーションギャップである。nazunaも青年のころに、「どこが易しいねん!」と突っ込みをいれたくなったもんである。 もちろんここまでの話は、仏が対象であるから、ルビシャナ仏でも大日如来でもOK。アミダ仏のみの特許ではないわけである。しかし、観無量壽経においては、まさに観想として「念仏」が語られているから、「念仏」の仏の代表的な存在が、阿弥陀仏と理解されるようになっていくわけである。 さてさて。こうしていづれにしても、「念仏の教えは易しい」とは、どう見てもいえないということになる。そこでついに、口称の念仏が登場することとなる(3へ続く)
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