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パンデミッツの影響で、どうなるか?と危ぶまれた法要。各地からの団体参拝が2割減という状況ではあったが、無事開催されている。 わが寺のメンバーも昨日参拝のご縁に合わせていただいた。ご門主ご親修のもと3000人で「正信偈」を読誦。それから、ご親教をいただく。 「親鸞聖人のご真影に御帰りいただいた」 「ご真影さまに話し聞いていただく、ご相談申し上げる場所」 というフレーズに胸を熱くする。 ご門主こそ、迷われたり悩まれたりされるとおひとりでもご真影さまにむかわれてお話をなさるのであろうなあと感慨一入である。 「迷いのままに悩みのままに救いとられていく阿弥陀様のおはたらきが、南無阿弥陀仏になられて私のもとにとどけられてある宗旨の尊さ」をお示しいただいた。わがご門主さまは、あくまで親鸞門徒として生かされていくことをお喜びになされていらっしゃる。 nazunaもその末席に連なるものであるから、それが何より有り難くうれしいのである。 立派な伽藍、文化財としての値打ち、縁儀を含む伝統的な衣体と声明作法。それらも「報恩の南無阿弥陀仏」といただいて、研究・継承・発展されるべきであるし、その伝統の重みと価値も感じる。 けれども、道俗いづれであっても同じ道を歩む仲間であるという思いが根底にあっての有り様こそ、浄土真宗の真髄であろう。 4月2日には、阿弥陀堂での仮住まいから御帰りいただいたのであるが、読者はどう思われるのだろうか? 「笠地蔵」という民話がある。ご存じであろうか。そのお話の眼目は、「雪をかぶり埋もれていく石の地蔵さまを見て、貧しいお爺さんが気の毒である」と感じたことが、お爺さんの行動の規範になるところである。そして、笠が売れたらその金でお正月を迎えようと待っていたお婆さんもまた、そのお爺さんの行動規範に大いに賛同する。 「石の地蔵が寒がるか?」といえば、そんなんことはなかろう。唯識的にいえば「お爺さんの心がそう感じたのが事実」であって、真実ではない。しかし。 生活費をかせぐことを忘れて、「ああお可哀想に」と迷う愚かな爺さまの姿に、人の世を生かされていける暖かいお慈悲をいただくのではないか? よく、ご讃嘆で申させていただくが、恋人の写真はモノである。モノであるが、大切にする。誰かに踏まれたり破かれたりすれば、たとえ肉親であっても腹が立つ。なのに恋も夢もさめて別れてしまうと、自分で破いて棄てることすらあるものだ。 モノを通して「はたらき」を感じることが、人間の人間たる由縁である 弥陀仏、如来さまの存在は真(まこと)である。けれど悲しいかな、われわれ凡夫にはその存在と救済のはたらきをとらえることができないのである。だから生身の親鸞さまの人生が必要であったのである。 真実がわからんお前があるから、わしが出た。阿弥陀仏がお出ましなられたのであると ====「弥陀の五劫思惟の願をよくよく案ずれば、ひとへに親鸞一人がためなりけり」 ==== ご門主と門徒。宿縁によって役割の違う生まれ合わせであっただけのこと。「釋即如」として阿弥陀様に抱かれ、常々こう仰せであった親鸞さまのみ跡を慕う、この道である! 終了後は、皆でこの期間中にのみ開放の庭園「百華園」をめぐり、さらには国宝の唐門、金閣・銀閣と並んで「京都三閣」になる、飛雲閣を見学できた。 申し添えれば、nazunaは、何百年の古から、大屋根の雨水を一身に受けてくれる「アマノジャク」の姿に、心ひかれ頭が下がる。新調なった御影堂の前のすりきれた石桶にも気がついていただきたいものである。 明日まで法要は続く。どうぞお参りを!!!
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住職、涙チョチョ切れる


