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「知恩」という言葉があります。お寺の名前にもなっていますね。恩を知る、と読むと主体は、ワタシ になります。ヒトを罵るのに「恩知らず!「ということがあります。 子どものいないご夫婦。ある日野良仕事の途中で、ワナにかかって傷つき飛べなくなった鶴を助け、手当てをして逃がしてやります。すると、ある夜美しい娘が訪ねてくる。身寄りの無い身、と夫婦の家に住み着く。やがて、この家が貧しくお金がないことを知ると、「機織り機とひと部屋」を用意させてそこに籠る。 「決しのぞかないでください」そう言って、部屋に籠るとなんともいえない不思議な感触と美しい布を織りあげて、一家に大金をもたらす。しかし一枚一枚と織るたびに、娘はやせ衰えていく。 心配になったおじいさんおばあさんは、禁を破る。するとそこには… … … アフラック!!!!とアヒルが生命保険の宣伝をしておりましたとさ??? 失礼。なんと鶴が、自分の羽根を抜いて布を織っておりました。驚くおじいさんに、「実は御助けいただいた鶴でございます。せめてものご恩返しにと思いましたが、正体を見られた上はもうごいっしょできません」と、鶴に戻って飛んで行ってしまった。老夫婦は恩返しよりも娘といっしょに暮せなくなったことを嘆いたということである このお話から、示唆されること。1つは、「恩」とは感じた側のものであること。さらに報恩の思いがどんな行動にでるかは一律に規定できないこと。そして、これで終わったという「恩返し」はないこと。等々ではないか。 そこで知恩を「めぐみに目覚める」とやわらげてみましょう。私たちは何にめぐまれているでしょうか? 親や家族の支えというのはわかりやすい。親の恩、先祖の恩は気付きやすくコトアゲし易い。 けれど。 かつて娘の運動会に行ったとき。ビデオカメラを構えまして、一生懸命娘の姿を録画取り。帰宅後に皆で鑑賞会をしました。実は撮るのに一生懸命でそう何度も見ないのでうが。で、見て驚いた。 「あれれ、演技全体は何をしたはったんやったっけ?」と。 そうです。わが子を追うのに夢中で全く、他の子を見ていなかった、いえ演技そのものへの関心を失っていた自分がそこにいました。 お寺にも「先祖大事」が信心、仏教と思われている方がたくさんお参りになられます。私が知り私が返せる「恩」というものの、それは実は形を変えたエゴであったり自己満足ではないのか?そのように、自己を疑うところから本当の聴聞は始まります。 如来大悲の恩徳は 身を粉にしても報ずべし
師主知識の恩徳も 骨を砕きても謝すべし
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仏教をカタル






