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スウィートbonbon(壽光寺の内緒話)

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2月4日 鄭早苗氏の訃報が入った。肺がんであった。

彼女の履歴を記す。

大谷大学教授。専攻は古代韓国・朝鮮史。神戸大学文学部卒業後、大阪市立大学大学院文学研究科修士課程修了。主な活動として大阪府在日外国人有識者会議委員、京都女性協会理事、豊中国際交流協会理事、アジア太平洋人権情報センター評議員、 NPO法人在日コリアン高齢者支援センターサンボラム理事長、(社)大阪国際理解教育研究センター理事長

今日は通夜であったが、夜間の授業があって間に合わず、10時前に葬儀会館に訪問した。遺影とご遺体の前に法名と南無阿弥陀仏の御軸があたので、阿弥陀経を勤行してのち、生前であるとみなして行うのが通夜であるから、御礼を申してきた。

nazunaを、自身では侵略の歴史としか見られなった本願寺の歴史に対して、日朝交流の歴史や親善の歴史、さらには仏教交流の歴史に導いて下さったのは、早苗ソンセンニムである。

そのダメ押しが、1987年に共にした「韓国ツアー」であった。行き先にnazunaのリクエストを入れて下さって、慶州での仏国寺、そして伽耶山の海印寺、を訪問できたのである。

上田正昭先生、姜在彦ソンセンニム、金達寿ソンセンニム、らとともに、教員になってから日朝交流史を学ぶご縁に恵まれてたのは、たまたま6年生で担任した朝鮮人児童たちに「歴史をどう語るのか」という課題があったからである。

それは、古代から近世にかけて日本の中の朝鮮文化としてたどる道を志し、京大受験したものの失敗し、いったんは歴史への道を閉ざしたnazunaにとって、再び歴史への関心を呼び覚ますものであった。

当時、早苗ソンセンニムは大阪市大にいらっしゃった。彼女の長男を担任したご縁。さらには妹である鄭和江氏が「指紋押捺を拒否」して、外国人登録法や国籍法、さらには在日朝鮮人の法的地位や人権問題について、問題提起を行われたことにかかわり、運動の渦中にあったご縁。これらの中で、上記のような韓国ツアーが実現したのである。

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88年ソウル五輪前。戒厳令がとかれた韓国へのツアー。それは、仏教の道を学ぶことになった。海印寺の高麗大蔵経の版木。これこそ日本に輸出されて、三河版となった原典である。当時の伽耶山にはホテルはなくいわゆる宿坊で宿泊。風呂はなく水シャワーという記憶がある。また、完全な韓式の食事。茶房。伽耶山の印象は濃い。

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さらには、梵鐘や岩肌に彫られた「南無阿弥陀仏」。新羅の元暁律師のことなどなど。朝鮮浄土教と日本浄土教。同行の小中の教員をさしおいて、早苗ソンセンニムとnazunaだけが交わしえた会話の数々。真宗僧侶であることと朝鮮文化を学び在日の歴史を日朝交流史の中に位置づけていくことが一つになった瞬間は、この伽耶山の地で起きたことである。


ありていに申せば、大蔵経に感動したとき、念仏者がそのまま民族差別とたたかい在日朝鮮人を貴重なパートナーとして共に新しい日本社会を築いていく道を歩み、時には政治・社会運動家であることに何の矛盾もなくなった啓示であった。

10年に近いブランクの中で、喪主を勤める大輔氏や姉の優姫氏の成長された姿を拝し、また和江氏と旧交をあたため、立派になった彼女の息子たちとも再会できた。

早苗氏は、見目麗しき女性としてのたおやかさの中に、二世としての誇りと悲しみを湛えて、それを学問の道と市民運動の道へと展開された先達であった。64歳。病を得てのこととはいえ、早すぎるご往生であった。けれども、ここに真宗の一人の住職・僧侶をお育てになられたことは、是非とも言い置きたい。


うろ覚えの朝鮮語であるが、「チョミョソンセンニム、カムサハムニダ。シンセルル チョスムニダ。ウネヌン イッチ アンスムニダ(早苗先生、ありがとうございました。お世話になりました。先生のご恩は忘れません)」


合掌。

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