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こんなのが来てます。 新猫のシーズンに2匹きてうち1匹が、庭で暮らしてます。 朝夕に娘が、水とエサをおきに行くと、「悪いいことせえへん?」と様子をうかがいます。 しばらくすると近寄ってきます。今度は「たたいたりせえへん?」と様子をうかがいます。 慣れるまでのエツケ期間です。夜は自転車のカゴに入って寝ています。 大阪の西区で子どもが二人死にました。身を切られます。オカーサンと泣き叫んでいたそうです。 何とも言えない悲しさと虚しさと怒りを覚えます。けれども。 縁起の法に聞けば… 最初、ネコの子たちとして、この子は2匹できました。今1匹です。もう1匹カラスに目玉をつつかれて食われたいたという「情報」もあります。 私たちは私たちの見える範囲でしかものを見て、考えることしかできない。それが悲しいですが、だからこそ平穏に暮らせるのです。見ないことにしてなかったことにするのは、私たち十八番。 日々見逃し起こしていく罪の自覚がない。これを、祖師方は「煩悩具足」とおっしゃられたのですね。 トマト、今日は、庭の石影でやすらでいます。 |
お寺のくらし







全てを慈しむ事など出来ない。それが「人」であっても「自分」であっても…はなから出来ないようになっているのでしょうね?
[ 竹光侍2008 ]
2010/7/31(土) 午後 7:36
私の子ども時代、ここまで大人が分割可能な最小単位としての個人、ということを無自覚に前提にしていませんでした。だから、個人の有り様に全てを還元する思考は、まさに戦後社会が産み育てた。
結果、ダメでいい加減なものを批判し切り捨てる言動を取ることで自己防衛し、単なる自己防衛を個の確立であると錯覚するようになりました。
確固とした個はない。仏法はそう教えます。濃淡・軽重はありますが、それも縁起の主体的な受け止め方で変わる。相対なものです。
道徳も倫理も法さえも便宜です。
2010/7/31(土) 午後 9:38
本当に痛ましい事件でした。
せめて、身近でおきるできごとに、見て見ぬふりをしない人でいたいと思いました。
2010/8/1(日) 午後 10:22
彼女の結婚の破たんと、なぜ子育てがイヤになったのか。描いていた脳内世界と現実の夫婦生活や子育ては違ったのでしょうね。そういうときに人はどうするかということを、先験的(そんな誰かを見知ること)に経験的に学べる機会が、ないのかもしれません。
2010/8/1(日) 午後 10:45
偶然ですが、うちにも、こんなんが来てます(苦笑)どうやら我が安普請が気に入ったらしく、壁もひっかかず、ちゃんとトイレを使って、夜は隣で丸くなって寝ております。
何も言うことはないので、やりくりしながら餌と猫砂を買っております。面倒だと育児放棄したくなることもありますが(苦笑)一緒に住んでおるものを、そうできません。これも縁よなあ、と思っています。育児放棄した方は、己を「放棄」できなかったんでしょうね。
我以上に大事な者はない、と皆が思いますから。我もエーカゲンな者だと思えないと、人生がつらいでしょうなあ。
2010/8/4(水) 午後 4:01
「あなたがどうするか」だ!というような下世話なもの言いは、昔の人はしなかった。縁起の中と認知しようとしまいと、そんなことは言わずもがなで、自明のことでしたから。それをコトアゲしたもんだから、「自我のみ肥大」させることが善で全になっている。
つまりはモンモノの教養人を食いつくした(江戸明治)のですなあ(嘆)。
2010/8/4(水) 午後 9:23
誰かと一緒に居たなら、もっと語り合える人間関係を持ててたなら
どこかで歯止めが掛かってたのに。。。
この女性のこと何も知りませんが、心許せる友達も居なかったんでしょうね。
ここに行き着くまで、、放っておいたとはこの女性の内面に
かなり重症な孤独感があったんじゃないかなと思います。
2010/8/6(金) 午後 1:53
漏れ聞くニュースから、やはり相当な孤独感の中で育った方であると思われます。誰かを頼るということを、知らないままに大人になったのであると。おせっかいおばさんやおじさんが必要であります。
2010/8/14(土) 午前 9:33