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臓器移植法案が、この7月、前面実施された。さっそく家族の承認で移植手術が行われた。提供者をドナーという。ドナーとはダーナで、檀那(旦那)。
仏法流で申せば、「布施する人」である。 臓器移植に伴い、脳死を死とする判定が問題になった。そのような論議やシンポに僧侶としてかかわり発言を求められることも増えた。 仏法をいただくと、全ての解釈や意味に2つの基準があることに目覚める。特に念仏者のように他力(如来の自他力)を受ける身になると、如来の基準と自己基準が矛盾することになる。 「雑修自力をふりすてて」というのだから、基準は如来におくこととなる。自己基準を放棄するわけである。 ちなみに私の基準では、ヒトは死ぬと消えてなくなるのであり、姿の見えない人格がどうなるのかは全て想像や願望でしかない。 如来の仰せは「往生浄土成仏」であるから、「死ぬではなく仏に生まれる」のである。 そして、その如来の仰せ、本願に帰命すれば、基準は仏法となる。そこで、コメントを求められると、自力修行の六波羅蜜のお話をして、布施行のことを言う。 布施とは本来まじりっけのない利他行でなければならん。そして、自己の身体をなげうって、利他にするわけであるから、私一人が死んで五人助かるのであれば、リクツからいえば、生きたままでも手術していただいてバラバラ死体になるのがベストである。なあに、速く浄土へ参れていいではないか。 ただし、法律化したのであるから社会が布施行を行うことになる。ならば、移植手術は無償で行われるべきであろう。つまり、皆が無償で人助けする。いい社会ではないか。医者は布施をいただければええではないか。これでこそ仁道に生きるものになれるぞ。 ところが、今日行われる移植手術は病院や医者に利益をもたらす仕組みになっている。提供者と移植者の間には「好意」「布施」ということしかなくても、その交流を金銭に代える仕組みがちゃんとできているのである。はたまた、臓器に値段が既についている。だから、私個人の見解として「おそらくは、そのような売買交換を伴う経済社会ににおいては、布施行としての<臓器提供〉は成立しない」と考えている。ドナーと呼ぶ根拠がないということだ。 それでも、「救える命がそこにある以上できることをする」とお医者さまがおっしゃることもあるので、そんなときは以下の提案をする。 経済活動にはダーナ(チャリティ)とトレード以外に「ポトラッチ」があります。トレードを否定しダーナが成立しないなら、ポトラッチすなわち互酬がいい。人から臓器を貰った人は必ず別の臓器を誰かに提供するのである。今回の法律でいえば家族の承認で切り刻めることになったのであるから、本人の身体で使えるところが無いのであれば家族から切り取ればいいい。もらったらあげる、この一項目を法律に追加しましょう。 こう言う話をすると、不思議にお医者様方が黙ってしまわれる。なぜだか、私にはわからないのであるが。 |
仏教をカタル







世から受けた恩恵は世に還すと云うことでしょうか?有り難い考え方です(^∇^)
[ 竹光侍2008 ]
2010/8/11(水) 午後 2:40
お医者さまは、商品売買(トレード)ではないとお考えのようで、ならば臓器移植とは何なのですか?となるんです。医者が神様でないことは自明ですからねえ。
2010/8/11(水) 午後 10:10