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8月20日。安居の一日を利用して、福岡から朝倉・甘木へ 法泉寺さまという浄土宗の名刹を訪問した。 永代経をあげて、お墓をお寺におまかせするためである。 これが、残っていたお墓。五世まで記名されている。 壽光寺は前にも書いたが、1540年の創建。山城国西岡今里邑・天神堂道場、極楽寺として、今の長岡京市に創建された。本願寺実如の弟子と寺伝にはある。その後、西本願寺の御堂衆として『慶長日記』等の史料に顔をだし、秀吉亡きあとの徳川の隆盛によって、3世了加(賀)は伏見桃山城下に通寺を建立する。この城下町が大阪夏の陣の後の、壊滅した大阪城下を再建させるために、移転させられた。門徒が移動すればお寺も動くのが真宗。元和六年には大阪入りしたようで、この時期・本願寺御堂衆から極楽寺が消える。以来明治維新まで大阪上町・天満・船場・島之内の門徒の寺として護持発展してきた。 その初期、大阪北新町・極楽寺は、5世のとき貞享年間に寺号を「壽光寺」と改号した。御堂衆とは本願寺の勤行や法事にかかわり、声明や読み物、さらには能役者として芸能も行った存在。この少し前の寛永期に本願寺御堂衆としての極楽寺が史料で見えるので、通寺と本寺が分裂したことようである。そののち何らかの事情で、大坂の方が改名した。残っている史料では良如上人の御絵像下付との関係があり、寺にはそのとき寂如上人から下付された「御文章」が現存するので、本願寺側の裁量での寺号変更のようである。というのは、この後も已前として、「極楽寺」を名乗っていたので、屹度のお叱り≂閉門、を受けているからである(『摂津国諸記1』)。 (そののち、14世の急逝と15世の継職までの空白に、大阪市からの移転命令を受けて今の地へ、大正15年に移転して現在に至るのである。) そんなこんなの江戸期からの門徒が七家いづれも200年のおつきあいである。 そのうちの伏見屋O家。ご当主が去り奥様が残られていたのであるが、体調を壊されて東京の娘婿さんのところへ行かれた。そこで、代々の過去帳の写し(ホンモノは空襲で焼失)と残された古文書を読ませていただいた。 先祖は甘木・水町で薬屋を営み、代々善三郎を名乗った家。その三代目傳兵衛で大阪へ出られたこと。そしてその背景に甘木の大火がありまた、傳次郎という弟の存在がわかってるので、大阪伏見屋は相当に古いと思われる。 こう言う経過で、甘木がルーツであることに疑いがないので、今度は甘木側の史料をあたった。歴史資料館のお世話になり、市史に「水町・伏見屋O」の記述があること、水町のお寺は法泉寺さまであること、を示唆していただき、法泉寺に問い合わせたら、現存するO姓の檀家さんでは不明なO姓の墓が、中途半端な場所に残っていて、真宗の法名があるといわれた。これが2008年のこと。 そこで、このたびご縁が整って、門徒家族の代理で住職が代参し、事実確認を行ったというわけ。これも夏の安居(僧侶の学習)の1つである。地方史の中の寺院史・門徒史はnazunaがコツコツとフィールドワークをし門徒家の古文書を探索して調べていることの1つである。 いやあ、現地にいってみるもんです。秋月は秀吉の島津攻めで降伏した土地であって、この島津攻めには本願寺教如が同行していたので、朝倉・甘木には真宗寺院が圧倒的に多い。それも、お西が。それはデータで知れたのだがいってみて??? 福岡から1時間余。山中の盆地。法泉寺さまの大黒さまのお話では、「しょうっちゅう市が立つ商業地であった」とのこと。街道筋の集積地であったのか、まわりが農村なだけに謎が多い。そして真宗伝播と繁昌の経過も知りたくなった。 肝心のO家のことは、関連ありだが石碑では善三郎と惣太郎もしくは辧太郎がかろうじて読み取れるぐらいであったので、O家先祖の墓とは断定できなかった。けれども、現甘木にはO姓は二軒しかない。そのいづれもが、伏見屋とは無関係とのこと。もっとも大阪の伝承では、写真の竹屋さんが本家であるそうだが、それも遠い昔の分家本家であるから当代にはチンプンカンプンであろう。 一応お話を聞いたが、「水町のOは知らない」とのこと。真宗寺院の教法寺・清原さまも訪問したが、伏見屋、Oとも記憶無し。したがって、関係は江戸の内に記憶をとどめ、歴史の彼方へとフェイドアウトした。 O家の意志で、永代経を納めさせていただき、壽光寺からは手土産を、法泉寺さまと甘木歴史博物館(写真)にお渡しして、この旅は終わった。 博多での一幕は次回に。 |
住職、涙チョチョ切れる


