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(お勤めがともにできるように、じゅげむではモニターで本堂を映した)
Bパターンである。写真の勤行のように、皆でお経をいただくのが法要。
さてところが、このお経を読むことは、死者供養であるという認識がかつて常識であった。
「死」を断絶としないで、永続する生命とする。プツンと切れてパー、ではないようにしたい。死を恐れ避けるというのは生物の本質である。でも、必ず死ぬ。この矛盾を解決せねば、私たちの「生」はいつも不安定なままになってしまう。
だから、ここでないどこか、『他界』が想定される。死者はここでないどこかに行き、そこにいる、というのだ。
そして、その世界は「善悪」「美醜」「好嫌」「楽苦」に二分される。天国と地獄とかj地獄極楽というやつ。
そういう観念が弱まっているからなのか、断絶することを恐れないほど、現在が孤独であるのか、とにかく、「死者」の行方への関心が以前よりも単純化されている。
そして、おそらくは「墓地」や「骨」への執着は変化していてもそれほど減っていない。
さらには、もう少し無機質な「死」が増大しているのは、キーパーズの吉田さんや引き取り手の無い遺体の増加によいって、明らかである。
Bパターンは、こういう状況の中の一大多数。おそらくはそれなりの葬儀をそれなりに勤めれば、どこかに輪廻転生する、というTVを中心としたメディアの共有概念に影響されて、一定の死生観を学び自己のものとするテマ・ヒマをかけない、という生き方につながっている。
この層が多数であるから、葬儀の経済的分析に一定説得力があると同時に、ゼニになる話題になる。
さてここで、まったく目を違う角度におく。すると、葬儀は遺族という家族を誕生させることに気が付く。戦後、夫婦が家族の基本単位になると幻想し、それによって親子関係、血統主義的共同体である「家」を分解する方向へと歴史はすすんだ。
しかし、今日に至って、夫婦関係は離婚によって簡単に解消し、単親家庭が生産されることが証明された。つまり夫婦は「家族」の基礎単位ではないことが証明されたのである。
生活共同体の基礎は「親子」である。時間軸をたてにとる共同体。実は葬儀の際に、まさしく「遺族」という形で、この真実が照らされる。葬儀はまず、家族で行うものである。
だから「家族葬」という言い方は葬儀葬儀といっているようなもの。改めてそういうことで実は上記の真実を遺族に意識させるから、受けて定着しつつあるのだろう。
今、葬儀を司るものには、①遺族としての家族を参加者に発見させること②その上で、死者を想うこととなる十分な形式を与えること、が要求される。
つまり、死をとりあえず個として扱わないという用意周到さと、礼儀・規範・挙式におけるパフォーマンスの優越性の担保である。
ひらたくいうと、坊さんが司るならば、衣装・挙措・声明にコストパフォーマンスを演じる。美しく悲しく演技的に葬儀する。
実は、経済的な価値に話題が偏るのは、司るものの不在、主導権が司会なのか司祭なのか、より高位なパフォーマーは葬儀社なのか宗教者なのか?
ここが、弱まっているのではなかろうか?
法要でのパフォーマンスに対する、大衆の反応がそのことを裏付けているのである。
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仏教をカタル







私が思うに、最近では「死」を個別的なものと捉える傾向が強まっているのじゃないでしょうか。葬儀社が葬儀の「生前契約」を進めるように、「死」であっても、それは「私が主演のドラマ」というとらえ方をされる。家族葬では(この言い方、たしかにヘンですが)こういう発想は出てこないと思うのです。
どうして「死」が個別のものになったのか?といいますと。本来ならば、それこそ宗教なり哲学の契機になっても良いはずのものが、実は「科学万能主義」という名の、実態は「ニヒリズム」に堕ちているからです。亡くなった家族の死を届出せずに、その年金を詐取するのは、ニヒリズムの発想があるはずです。
私は、ニヒリズムと戦うために、今や「怪力乱神を語るべきじゃないか」と思っているくらいなのですよ(苦笑)
2010/10/18(月) 午後 4:47
なるほど。ニヒリズムですか。しかし、一方でお骨を抱いて「おとうさーん」と泣く50代の娘がクローズアップされ、お骨=本人という意識も強いと思われるのです。だとすると、科学主義を装った「ニヒリズム」と、自己を無限定にアイデンティファイする「親」への傾斜という二方向への分裂状況(統合不能状態)にあるというのが、正しいのではなかろうかと愚考します。
2010/10/18(月) 午後 8:07