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スウィートbonbon(壽光寺の内緒話)

書庫浄土真宗をカタル

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前回も書いたが、「葬儀」がいつのまにか企業ベースになり、人が臨終を迎えたときには「葬儀社」へと、いうパターンになった。
 
そして、残念なことに「それが常識」といってはばからない社会人が多い。檀家制度が事実上崩壊している現在、寺院や僧侶から葬儀の手ほどきを受けることが減り、ビジネスとしての葬儀社が、手ほどきすることとなる。
 
そうすると、そこには諸宗共通というべき対応ができあがるわけで。
 
わけのわからない「日本教」というべき、「宗教」の信者のみがふえていくのである。
 
 
私たち浄土真宗は日本の宗教であるから、これに近親性を感じることもあるけれども、結論からいえばこれでは救われないのであって。
 
いかに形式が「真言宗」であれ「禅宗」であれ、その教えを無視した信仰や考え方をもって、代理がきくわけではない。
 
そして。日本の中で少数派であることは十分意識しつつ言うのであるが、仏教を学ぶものあるいは帰依するものということを、マジメに受け止めるのであるならば、流転輪廻は恐ろしくてゴメンである。また、死んで消滅するというのもゴメンである。
 
「仏説を裏切ることへの畏れ」、これがnazunaのすべてであるぞ。
 
ブログの読み手のために、口酸っぱくしていうけれども、どんな宗派であれ「成仏」を目指すのであり、成仏する、ブッダになるためには実行しなければならないことがあるわけである。
 
そして、葬儀によって成仏するという教えのある宗派は、nazunaの知る限り日本にはないはずである。
 
 
もしそうなら、日本中のお寺は必要なくなるのであるから自己撞着でありましょう?
高野山、比叡山、永平寺などで、ご修業なさっておられるお坊さんも意味がなくなりますね。
 
 
そして、葬儀のときにお坊さんが来てお経を読めば、本人がとんあちゃらんぽらんな人であっても、あるいは無宗教で無信心な人であっても、仏さまなれるなら、そんなことが真実であるならば、誰が真剣にお経を読み修行をするであろうか????
 
 
口にしたくはないが、あえていうならば、死者はその業によって生まれ変わられたという見方にたつか、唯物論的に消滅したという2つしかないのである。
 
 
そして、前者の立場にたって、次の人生で今度は仏縁を得てなんとか仏になれる道を選ぶように、地獄行きや堕餓鬼道を防いで、もう一度人間に生まれるように、追善するのであって、「ええとこ」へは行けません。
 
 
また、「無条件で人が死んだら仏になれる」というのは、どこかの誰かの希望的観測にすぎず、実際死んで見たらヒドイめに逢われるのではなかろうかと、心配である。
だって、みんな「冥福」を祈られるでしょう。無条件じゃないということを、どこかで知っている理解しているからです。
 
 
というわけで。なお、はっきりいいますが。
 
 
真宗では、平生業成でありますから、葬儀は一つの御縁であってそれ以上でも以下でもありません。勤行のリーダーとして導師といいますが、余宗のように「死者を導くもの」ではありません。
 
また、平生業成ということは、死んでからお寺に縁求めても、ご本人は手遅れです。よって、遺族が仏法に出会うご縁として全てを務めます。だから、七日参りを週一回の報恩の機会として、大事に務めて御信心たまわる機縁としていくのです。
 
また、信心がいただけている遺族であれば、全ては先の仏さまのおかげさまとして、お礼をしていくお勤めと家族の聞法の場として、この慣習を受け止め、ふつうに毎日お勤めやお念仏をなさっているのであれば、全部省略してもいいわけです。
 
 
「じゃあ、死んだ人はどうなりましたか?」という問いは、問われるお方自身が明らかにされることです。明らかにされようとするならば、自らお経をいただいて阿弥陀さまの仰せを聞いてください。自分の行先が明らかではない者が、他人の行先を心配するとは「倒錯」であり、笑止千万です。
 
 

  • 顔アイコン

    >だって、みんな「冥福」を祈られるでしょう。無条件じゃないということを、どこかで知っている理解しているからです。

    おそろしいことをおっしゃる。いや、たぶん、間違いなくこれは正しいように思います。だから恐ろしい。恐ろしくないためには「唯物論的に消滅」説をとるしかない、無になれば、恐ろしいと思う自分もなくなる。そう思えば、しかし、別の恐ろしさがあるのです。

    single40

    2011/1/20(木) 午後 4:08

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    single40さま
    最近、ふとした御縁で、葬儀をすることとなった当寺の新会館の設計者さんの仰せです。
    「とにかく、住職と出会ってからは、今まで一度も聞いたことのない話ばかり。こちらが宗教だと思っていたものがことごとく覆される」
    「けれども、そっちがホンマやなあと思う。また、それなりの大人なら、自分たちの価値観、戦後社会の思考が、近代社会とキリスト教の発想に支配されていて、どこかナチュラルではない、自分たちの本質とはちがう、と感じている」「だから、私は住職の話が大変面白い(インタレスト!)」とのことです。

    とある通夜でも布教後に、参列者の方から「なぜ、日本人は無条件に人は死んだら仏になるとするんでyそうねえ」と疑問を呈されたこともついこの間ありました。

    nazuna

    2011/1/20(木) 午後 4:49

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    nazunaさん、思うに「死んだら仏」は、ひょっとして神仏混合の名残りかな、と思います。神道では、死んだら神様、です。(ただし、神として「生きている人が祀る」が条件です。神道の神様は、もともと偉い神様もそうでない神様も玉石混交ですから)
    それが神仏習合して、神=仏になってしまったので「死んだら仏様(=神様)」になっちゃった、のではないかと。
    戦後民主主義も西欧キリスト文明も、江戸時代の「神も仏もごちゃまぜ」に歯が立たないでいるのかなあ、などと思うのです。

    single40

    2011/1/28(金) 午前 10:37

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    single40さま
    たしかに、そう言えるかもしれませんが、「死んだら神さま」といっても、神仏習合時代では、荒魂と和魂ははっきりしていたはずです。
    祖霊信仰とはそういうものですね。

    祀ることがなければ、善神=守護する仏とはならない理屈です。このスキームでは、仏壇や位牌などがなければ「祀る」ことにならない。しかし、実際には仏壇や神棚がない家庭であって、死者儀礼に関心がない家族が増えている。

    ここを、解いていかないと、いけないと思っております。
    (お父様のおかげんはいかがでしょうか?)

    nazuna

    2011/1/28(金) 午後 2:55

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