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スウィートbonbon(壽光寺の内緒話)

書庫住職、笑う

「無縁」を考える3

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(阪堺線応援シールとバッチ:無縁でない証拠!?)
 


―無縁社会というとき、「孤独死」が真っ先にもしくは中心的に語られる傾向があると感じる。しかしながら、「孤独死」は、無縁社会から生じる様々な問題の一つであって、社会全体から見た場合、無縁社会問題はより大きな広がりを持つ、というのが現時点での私の考えである。即ち、「貧困」「介護ニーズの増大」「介護負担から来る諸問題(介護者の生活苦、高齢者虐待など)」「児童虐待」「自殺」などが無縁社会において生じる(増加する)問題であり、そうした問題が増えることにより社会不安も高まるおそれがあると思っている


 
「無縁」というコトバをキーワードに語る、「報道」や「評論家」のモノ言い。もうすでに「無縁社会問題」がある、ということを前提に話が進められている。しかも、注意深く読めば、「貧困」という問題はかつてニート問題(派遣切り)でくくられていたコトバであり、「介護ニーズ」や「介護負担」さらには「高齢者問題」は、高齢化社会というキーワードで語られていた。
 
 
児童虐待問題は単親家庭問題にかかわる。さらには、自殺という問題がどうして無縁になるのか???である。
 
 
で、過去に別の切り口で問題だ問題だ、とさわいだとき、どんな答え、解決方法や想定される未来像とそこに至る方法が提示されたか、みなさん記憶にあるでしょうか?
稼いだ評論家や学者、識者は沢山いらっしゃったでしょうけれど。
 
 
結果として今、また問題にしているなら、メディアの報道には解決力はないという証明いなりますね。
 
 
マッチポンプに踊るというのはこういうことです。人々が利を求めて動くように、欲望を刺激して欲望の実現が「幸せ」であり、成功であるというイメージを広めて、商業活動を活性化して経済効率を上げて豊かになる(貨幣や財の独占)。そのための宣伝。
 
 
報道、というきれいな言葉の中に、一つの方向に人々を導く思想が隠れている。これを見抜くことを「メディア・リテラシー」といいます。
 
 
マッチの部分の①は人間観。人間はモノであり、親や家族そして自分も消費対象であるという資本主義的な思想を疑わさない。②は人生観。人生は成功するものだという断定。そもそも言ってから「成功」を示すというサギ的パターンですから。それらを援護する「幸福感」や「成功感」のばらまき。「セレブ」「選ばれた自分」「他の誰とも違う自分」という演出やイメージ、プチ整形にエステ。お気づきであろうが「女性」を消費ターゲットとした戦略である。
 
恐るべきは、左翼的・解放論的に思われる「ジェンダー」理論すら、「女性解放」と括られて、家庭から女性を抽出し、労働力(それも安価の)に動員し人間の物質化に拍車をかける方向で利用されます。
 
「食事」「子育て」「教育」「介護」という、イリイチが「シャドウ・ワーク」と定義した「無償の行為」が、イリイチの予言通りに見事に資本化されて「企業」となり、「職業」として、貨幣との交換対象となっている現在。①②の隠れたカリキュラムで、メディアによって私たちは教育されているわけです。
 
 
ポンプの部分でも商売商売。ワタミの社長は、都知事に立候補であるからねえ。それはさておき、今そのポンプ商売にかかっているのが「無縁社会」を流行させようということなのです。それによってポンプ型のビジネスチャンスを生むわけです。
 
 
もちろん。我々が選択した社会。ハムスターの回り車のごとくに、くるくると次から次へと、ありとあらゆるものを物質化し消費し続けなければならない流れが人類の在り様である。だから、欲望へのアクセルを止めよとおっしゃたのがオシャカサマであられた。それはこの車がまだ小さくしかも回転速度がゆっくりであったから可能であったのかもしれない。
 
世界市場が成立し、西洋近代と資本主義が、キリスト教亜種の「共産主義」にも勝利したと宣言するとき、ニーチェの言葉は繰り返され二度目の「神は死んだ」のである。もちろんこれは社会認識のレベルであって、実存的にはむしろ「宗教」は希求されているのでありますよ。
 
 
けれども、巻き込まれて自己を喪失する生き方と、それを主体的に選択していることに目覚めて、自己責任を引き受け(「自身は現にこれ罪悪生死の凡夫、曠劫(こうごう)より已来(このかた)常に没し常に流転して出離の縁あることなし」と信ず)、そうであるからこそ真実はこの流転輪廻の外にあると目覚められる。それは人類の現実、自己の在り様においては悲しみであり苦しみであり傷みである。
 
 
それをそのまま表現することを「祈り」や「懺悔」とキリスト教はいうのであるが。わが真宗はそれをそのままに生きる喜びに転じていくという位相転換をするのである。するのはもちろん私ではない。阿弥陀さまである(決定して深く、「かの阿弥陀仏の四十八願は衆生を摂受(しょうじゅ)して、疑いなく慮りなくかの願力に乗じて、定んで往生を得」と信ず)。
 
 
私たち念仏者は、そのような実存、人々の日々の日暮を根底から支えていくはたらきを受けて、あるいは回転を緩め、あるいは車を小さくしていく、ブレーキを手に入れているとも言える。
 
 
そうして「報恩」という論理、旗印でもって、「無償の行為」「シャドウ・ワークの非資本化」を達成するのである。ヒトとヒトが利害や恩義で直接つながるのではなく、浄土を介在して同じ方向に導かれるものとしてつながるという、新しい可能性をも示しているのであるけれど。
 
 
ここまで本音を書くと、ちょいと辛いですね。賢明な読者はお気づきのように、「真実信心」の道は、現代社会のトレンドを無効にする道ですから、「受け」という点では「絶望的」です。はっきっりと名前を出せば、〈創価学会〉や〈幸福の科学〉はこのトレンドを宣伝する役割を担ったからこそ大教団に育っているわけですから。
 
 
まいっか!南無阿弥陀仏。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

 

  • 会社の駐車場にちょっと早くついたのでCDをかけたら、入れたままの「阿弥陀経」が(笑)替えるのも面倒なので、そのまんまにして「携帯」を開くと、新着記事。小経を聴きながらの記事拝読は、なにやら「有り難い」ような気になります(笑)

    私は個人的に「浄土真宗」は、最後に辿り着いた、他に選択の余地のない「道」であるという経験が必要な気がします。その意味では、「真言系」や「日蓮系」の方が、即利益を求める現代に流行るのも分かる気がします。

    [ 竹光侍2008 ]

    2011/2/18(金) 午後 2:24

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    竹光侍さま
    仏教はもともと、出世間。世間を相対化するからこその価値です。世間的価値観のおいて良しとされることは、誹謗正法の道になりまねません。ここが厳しくつらいことですね。

    nazuna

    2011/2/18(金) 午後 4:13

nazuna
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