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スウィートbonbon(壽光寺の内緒話)

書庫浄土真宗をカタル

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(4月10日 「キッズ・サンガ 花まつり」の 花御堂)
 
親鸞聖人のご遠忌が始まった。
 
我々もまたこれをご縁に、親鸞聖人の生涯や教義について、認識を深めることとなる。
 
さて、nazunaが思うに、真宗教団論においての「誤認」を この際いくつか解くべきではないかと。
 
その一つが以下の「初期真宗同朋教団」論である。千葉乗隆氏のものを代表的に引用する。
 


真宗史の時代区分を致します場合には、初期真宗教団とか中期真宗教団、或は近世真宗教団といったような「初・中・後」という機械的な区分が行われていたわけです。しかし最近になりましてこうした機械的な時代区分ではなくして、教団独得の特徴ともいうべきものがございますので、そうした特徴を捉えた時代区分が、なされるようになりました。その結果、例えば初期真宗教団のところを同朋教団或は伝道教団、中期のところを教化者教団、更に近世を制度化教団、それから近代を遺制教団、というような区分が行われる傾向が段々強くなっております。
 同朋教団と申しますのは親鸞聖人の御同朋御同行の精神がゆきわたっておる、生かされておるところの時代・教団という意味であります。ではそれは大体どこらあたりで線を引くかということで問題がございますが、例えば覚如上人あたりから教化者教団的な色彩を帯びてまいりますので、覚如上人くらいまでを同朋教団と呼ぶとか、いや、蓮如上人くらいまでは同朋教団と位置付けてもいいのではないかとか、色々議論がございます。しかしともかく聖人の御同朋御同行という精神というものに依り規律されている教団を、同朋教団と呼びます。


一読して理解できるように、親鸞聖人在世のみぎりはある種「平等性」を担保した「仲間」が形成されていた、「親鸞は弟子一人ももたず候ふ」という有様であった、とされています。
 
ここから、現在において「覚如上人による血統主義」だとか「蓮如上人における往相の強調・王法仏法二翼論」という批判が生じて、現在の教団や近世・近代の教団を批判的に検証する視座が提案されます。信楽師などはその典型でありましょうか?
 
けれども、nazunaは、「同朋教団」と呼べるような事態は過去において一度も成立していないと考えます。
 
そして、この「かつて聖人の時代には同朋教団であった」とう幻想が、今日、真宗教団論を縛り付ける呪縛となっていると思わるのです。
 
農民であることはこの時代、猟師や猟師でもあることです。惣村成立以前の時代、特に東国においては生産手段によって人々が種分けされるのではなく、在地によって種分けされた。
 
「笠間の郡、大部の平太郎」という呼び方です。職業は、様々で田畑を有しながら侍であるもの、流通民として活動しながら漁師であるもの、いろいろな職によって生きていたのであります。
 
善光寺聖は宗教的使命を帯びつつ「商業民」であり「芸能民」でありました。鹿島の性信は大中臣氏でおそらく鹿島神宮の神官が在地における職であったでしょうし、順信はまぎれもなく神官ですね。
 
専門の僧侶ではなく在地の職人が、真宗信心を持ってゆるやかなネットワークを形成し、それらが「名号の下付」や「師の著書の書写」において、「束脩(乾肉一束)」や「冥加」を納めて、師・親鸞の生活が成り立っていたことは、末燈鈔や御消息における門弟への謝礼に見られる。
 
親鸞聖人自身の意識の中に、「よき人の仰せ」を伝えるという形で展開される布教は、当然「阿弥陀仏の仏弟子」が広まる活動であって、自身の弟子を増やす活動ではないので「弟子一人もたず」であります。
 
けれども歎異抄にて、念仏者の間に「○○の弟子」だという意識があっていさかいになっている事態が示されているのですから、一門の上下意識はこの時代当然に存在したといえます。
 
また、教学上の疑義が生じれば「師親鸞への面授」や「師親鸞の手紙」にてその当否を判断するのですから、古代〜中世における「師資相承」は、特別なことではなく親鸞教団にても行われていたのです。善知識としての親鸞聖人と、関東の門徒グループは仰いであったでしょう。
 
その親鸞さまの義を受け入れない主張をした信楽房は「信楽房の御門弟の儀をはなれて、下国のうえは、あずけわたさるるところの本尊をめしかえさるべくやそうろうらん」(口伝鈔)と、あるので、これは聞き書きであるけれども、関東門弟と親鸞さまの関係の門弟側の理解がはっきりとうあkがえます。
 
さらに、歎異抄二条において関東からご法義不審をたずねてきた門弟に、「面々のおはからひ」で念仏をとるかとらんか決めなさい、と言い放つ聖人の姿に、むしろ仏道の師たらんものの姿を見る思いがします。
 
経済的に見たときの法施と財施の交換が証明され、さらには法を説く人を善知識といただく構造が確認されれば、それは大小あれども現在の教団と同じくするスタイル、つまり「教化者教団」といえましょう。
 
ことさらに「同朋教団」と見なす根拠がなかなか見当たりません。取り立てていくのも不可思議なことです。各門徒のリーダーが自由に布教展開していく時代ではあるものの、教団の現実に一切のヒエラルキーがないというのは幻想でありましょう。
 
また、日常生活での「下人の譲渡し」にも、さほど抵抗を覚えておられないのですから、「支配被支配を超えた」暮らしをなさっていたというのは、あまりにも空想的にすぎるのではないかと思われます。
 
真宗門徒は人間の認知世界の外部に真実を認め、自身の世界を虚偽としていくゆえにこそ、ありとあらゆる現世の権威や権力を相対化し解体する視点を獲得します。けれども、歴史的現実の中でどのようにその視点が個人や集団の在り様として展開し得たかということは、視点の獲得と同一視はできません。
 
往生=成仏とされ、現世正定聚という念仏者への規定と、二種深信・二種回向という法の受け止めが、現実世界を編成していく中心論理となっていき、或いはそこから生まれる倫理が人々の日暮を規定していくには、まだ歴史時間は不足しているのではないかと思われます。
 
すなわち、現代教学の課題とは、近世教団が何をなしえたのか。近代教団は何をなしえなかったのかを正当に評価した上で(まっとうな歴史評価)、未だ現実化しない「同朋教団」を実際化していく作業を促し評価することでありましょう。
 
教学そのものを弄うことは、かの「戦時教学」と同地平です。原理的根本的な解決は「ただ奉事すべし頂戴すべし」と受けこんで、報恩業として上記の歴史分析と現状把握をリアルに議論する、そういったご遠忌にして参りましょう。
 
 
 
 

  • 門徒一万人を越えていたはずの[聖人]が、京へ帰られたのは、領主と成りつつある自分から、逃げ出したのかもと感じられました。遁世ですね

    [ 竹光侍2008 ]

    2011/4/17(日) 午後 4:07

  • 顔アイコン

    平雅行師は、関東からの脱出を「専修念仏」が地盤を失ったからであるとされます。円頓戒や金剛戒を前提にした「顕密仏教」の側に執権がついたことがその大きな社会的理由であったと。確かに叡尊師などの律宗や禅家の興隆をふまえると、専修=偏波という批判が起きるのもうなづけるのですね。

    nazuna

    2011/4/17(日) 午後 8:06

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