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天岸先生のお取次ぎ
さて、大阪である。現象的な問題をあげる。
①常例法座がない寺院が結構存在する。常例とは月一回、日や曜日を決定して、勤行を全員で行い、法話・説教を聴聞する会合である。法座がなければ、自称「門徒」や他称(お寺側が勝手に門徒としている)「門徒」さんが、お寺へ集まる機会が少ない。中には、真宗寺院である証の『報恩講』が営まれない寺院すら登場している。
②やたらと法務員が多く、葬儀と月忌参りを主たる活動とする寺院がある。もちろんそのこと自体が問題であるはずはない。一ヶ寺で、300軒の月忌参り先を超えると一日平均にして、10件となるので、その家のお仏壇でのお勤めが往復時間を入れて、30〜40分が限度となる。そこで、月忌参りを二人以上の僧侶で行うことになる。これが衆徒という名前で寺院に所属して、月給やノルマ給で法務を行う僧侶への需要となる。ところが、件数ノルマでいくと、短時間で多数を参るほうが効率はいい。市場経済の原則「効率化」である。そこで、自他称「門徒」との交流は二番目三番目となって、勤行して帰ることに特化されていく。このような付き合い方をお寺からされている自他称「門徒」さんも増えているのである。
③住職や寺族、法務員自体が「未信心」であるとしか言えない、言動を行う。これは今の問題ではない。昔から存在する。信心決定は親鸞会とちがって、ご当流では漸と瞬を弁別しないので、「お育てのうちにいただいてあった」という実感はある。しかし、①とかかわって、基準が社会性におかれて「信心決定」のための聴聞を、一番していないのが、住職・坊守や寺族になっている例はある。
④コミュニティにおける統合機能を喪失している事態の分析と評価ができていない寺院が多い。もっとも現代的な課題であって、政治や社会問題とかかわることである。基幹運動で言えば「同朋」運動がこれを担うべきであったが、観念論に終始して寺院のコミュニティ内外における役割行動や、その得失、歴史的責任を明らかにできないまま今日に至っている。
⑤組と教区が機能していない状況は存在する。詳細は次稿にゆずるが、手続き民主論によって、相互批判が形成されない状況が教区や組にある。①〜④の問題が教区や組で第一課題として議論されないことがその証左である。
次項からこれを詳説し、nazunaの独断的課題設定を行う。もちろんあくまでも①現時点での②1ヶ寺の住職としての、③地域性をふまえた、課題意識である。
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浄土真宗をカタル




こんにちは。大阪ですので、「おるおる!」と思う内容ですね。門徒もしかり、自分もどうあるべきかといただきました。
次の展開を楽しみにしています(^^
[ 一般神仏崇敬者 ]
2012/3/25(日) 午前 1:02
TBは水紋であり、相互に聞きあうというご当流にはふさわしい。どうぞご自由に。
2012/3/25(日) 午前 1:23