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悪の続きとなる
源空上人・法然さまという人はすごいお方で。
大原・勝林院で、南都北嶺の学匠方々の教理問答に対して、「称名念仏で浄土へ往生して仏となる」ことを明確に述べられると共に、今ここの私、という実存的な問題の立て方、「時代と機〈人)に相応した」というフィルターで大乗仏教を整理された。
それまでは天台の五時の教相判釈。
これは中国で成立した学であり、テキスト批判であった。そりゃそうだ。経典というテキストでしか仏教の全体像は把握できないのだから。そしてそのテキストに矛盾があたり量が膨大であったりするから。
これが天主教や回教であればテキストは一つ。だから逆テキスト批判ができないので、「解釈学」での正邪になる。
そこで仏教。仏教は絶対的崇拝者をもたない。だからブッダに至る道はそれぞれ、といわれても納得できる。
時代と人により「煩悩を滅して涅槃に至る」道はいろいろあるのだ。
でも、私が歩めるのは一つ。
じゃあ、私が歩める道とはと考えるときに、一つは自性が二つには縁(時代や社会の在り様)が問題になる。
つまり、今の私はどういう存在であるかという実存が問題となる。ここに形而上学が実践学になる契機があるわけで。
源空上人が自身に見出されたお答え。それは、「自身は現にこれ罪悪生死の凡夫、曠劫(こうごう)より已来(このかた)、常に没(もっ)し常に流転して、出離の縁あることなし」という善導大師のご自覚でありました。
ブッダになるということは本当の人間になること。真人間の人生を生きる。
でも、そういう要素が自分で自分の中に見出し得ない私であります。お釈迦様が命をかけて導いて下さった教えを聞かず、生活の在り方もその教えに背き、むしろ煩悩の限りを燃やしてなお尽きない。
それが私と。法然さまは上記の善導大師のお言葉に深く同意されるのです。
仏道に背いている私の発見。こうなった人を「悪人」といいます。
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浄土真宗をカタル




初歩的な疑問でありますが、「仏教は絶対的崇拝者をもたない」とのことでありますが、まさに仏陀その人はどうなのでしょう?キリスト教ではキリストと神は一体、回教ではマホメットは神の預言者となっております。それぞれ神を信じているわけですが、代理人たる教祖への信仰と神の信仰はイコールである、という構造をもっております。
仏陀も、仏道に帰依するならば、同じく教祖として絶対なのではないのかなぁ、と。素朴な衆生の疑問であります。
2013/6/24(月) 午後 1:08
テーラワーダではブッダはお釈迦様一人なので、シャカへの帰依となっていると思います。ところが北伝の方は、竜樹や世親、無着などの思想家兼説法者が出て、教法を構造化しました。そこで、人から「法」中心にシフトしました。法は万人に開かれ万人が悟り得ると。ゆえに無数のブッダが想定されます。
2013/6/24(月) 午後 3:04
nazunaさん、ご教示ありがとうございました。「無数のブッダが想定される」というお答えで、なんとなく「法」のイメージが涌きました。
2013/6/24(月) 午後 5:10
single40さん
まさに、イメージですね。人のことを「機」といいます。機械の「機」。これは自身では動かないが仕組はちゃんとあって、しかるべく働きを受けると動く。動かすものと動かされるもの。回っている地球と地球を回している力。言語によっての表現ですから、メタファでしかないのですが。「ある」のではなく、あらまほしい。ダルマとブッダとサンガを運動論的に把握するのが大乗です。
2013/6/24(月) 午後 11:43