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親鸞旅日記を演じてくださる 春野恵子さん
白髪 谷川俊太郎
嘘じゃない
でも本当かと問われると怯む 隠してるんじゃない 言葉を探しあぐねて 堂々巡りしてしまうんだ せめぎあう気持ちは 一言では言えない 言えば嘘になる だから歯切れが悪いんだ 言葉ってしんどいな 静寂が欲しい ちょっと休戦しよう きみも白髪が増えたね 「いたわる」、という言葉がある。労わると書きます。「子育て」がいつのまにか教育となって、「しつけ(躾)」という言葉も家庭内暴力の言い訳用語になった感があり、国を挙げての「心の教育」を行うとおっしゃる。「思いやり」を育てるとも。
これらの背景には、【ヒトには他のヒトの心を意図して動かしたり育てたりできるのである】という考えが、見え隠れします。しかし、ほんとうにそれでいいのでしょうか?
佛教ではヒトの活動を、身・口・意の三業にわけていいますが、それは、分けないと理解できない、私たちの都合に合わせてのことです。ブッダの真実の眼差しは、「我が身ひとつ」と、全部まるごとの「私」をとらえられます。特に、私たちのよりどころである「浄土教」では、三業を「聞き称える」ことひとつに集約します。コトバが響くという身体のはたらきは、心もゆさぶられているということです。それは同時に、身体が他者にむかって劈かれて動き出すことでもあるのだよと。
ならば。道徳や心だけを問題にすることは、危なっかしい。学ぶは真似―ぶ。モデルの動作をなぞることでヒトは「人間」になるのです。
「いたわる」は動詞、身体の動きです。「南無阿弥陀仏」の名号は、阿弥陀さまの動詞が私の動詞となりたまうお姿、であります。私には三人の娘がありますが、中の娘は傍目にも美しい娘で聞き分けが良かったので、労わることをしなかったという後悔があります。中は上と下にはさまれて「辛抱」することが当たり前となる。そこで本当に「悲しかったり」「悔しかったり」したことを一人でじっと噛み締めることが多かったと思います。
そんなことを阿弥陀さまはよくよくご存知でありました。悲しき凡夫の親は、阿弥陀さまに動かされてやっと気づくのです。秋まっさかり。子の恩に感謝することでありました。
10月の行事
○親鸞 ( しんらん )聖人 ( しょうにん )報恩講 ( ほうおんこう ) 十月四日(金)〜六日(日)
四日(金) 午後六時開場、六時半開演 [藝能報恩講] 無料
声明「日没礼讃偈」浪曲「親鸞旅日記」 +α 出演 春野恵子 壽光寺住職・釋慶典
五日(土) 午前七時半〜八時半 正信偈六首引き 説教・住職
午後二時〜 奉讃大師作法(真宗六藤会)
御法話 貴島信行師(龍大教授・真行寺住職)
午後七時〜「御伝鈔拝読」 絵解き一座・住職
六日(日) 午前十時〜午後四時 節談説教布教大会 無料
午前十時「宗祖讃仰・音楽法要」 節談説教・四名
午後一時半「讃仏偈」 節談説教四名
〇お朝事 午前七時半〜 五日・十二日・十九日・二十六日
☆住職出講(全て節談説教です)
八日(火) 箕面・正願寺 報恩講 午後二時半〜 七時半〜
十九日(土) 京都大原・勝林院「一千年紀」 午前十時〜
寝屋川・本覚寺 報恩講 午後三時〜 七時〜
二十日(日) 〃 午後三時
二十七日(日) 和歌山市・西方寺 報恩講 午後二時〜 七時〜
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谷川俊太郎の詩ですか。最後の一行「きみも白髪がふえたね」が素晴らしすぎます。その一言が言えれば、みんな休戦できるんでしょう。
どうも、ギスギスしてしまうのは、言葉を相手にして、人を相手にしないせいでしょうかねえ。
2013/10/2(水) 午後 4:04
言葉から感情を奪えるか?というのがここ数年の私の考察対象です。もっとも論理的な記号は数式であると思うのですが、それでもそれを「美しい」と感じることがあります。もっとも感情的な言葉は、仏教的には「あ」「うん」ですが、むしろ論理性を感じたりする。何が言いたいかというと身体性を我々は前提としているのではないかということ。それを見失う事態が言語活動のなかでどういう時、どういう条件で起きるのかということをずーっと考えています。
2013/10/3(木) 午前 10:24