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スウィートbonbon(壽光寺の内緒話)

書庫仏教をカタル

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台風の当たり年であった今年。フィリピンを襲った大型台風も、自然法則の中。
加持祈祷で台風の発生を抑えられるようなことは起こらない。受け持ちが違う。

年末にあたって、つまらない言い方で仏教や真宗を説きます。つまらない、というのは伝統的かつ感動的ではないということで。

科学とか科学的認識とか。そういった体系を歴史的にまた、実践的に学んだのは、全て「仮説実験授業」を提起された、板倉聖宣博士と研究会の皆さんからである。

その、師匠が「宗教について語られたのが、『たのしい授業』2014年新年号に掲載されている。竹田美紀子さんが聞き取り筆記された、その概要を引きながら。

宗教の話になると、普通は「宗教はあるのが当たり前だ」というのが大前提であることが多いです。でも、「宗教なんてなくていいじゃないか」というのが僕の考えなんです。

こう師匠は結論から言う。あらゆる自然物を人格的にとらえたり、何かの啓示的にとらえるのは、その自然は尊敬の対象であることを意味する。敬して遠ざけるという態度がその底流にあって。それは、結局は「まだよくわからないものに、早急に結論を出さない」という理性の一面であるという分析をされるのだ。

それに対して包括的かつせっかちに結論を出すのが一神教。だから間違う。間違いを含むとそれが真理を楯にした人々の間の裏切りや権力性をはらむことになる。

マルクス主義みたいなものも、ある意味では一神教からくるんですよ。「社会主義はいいものである」とか、結論を決めちゃうでしょ。だから間違いが起こるんですよ。(中略)結局一神教は絶対的な神に同意することを求めるから、侵略性を持っているんだよ。学問だって自分を座標にして考えるから、侵略するんだよ。(中略)最近、僕は「そろそろ一神教の世界支配は終わった。だから、新しい時代が来た」と思っています。

実はここまで全く、nazunaの見ている風景と、同じ。さすがに師匠だなあと思うのであるが。そこで「真宗の時代」だとnazunaは結論づけているところが、師匠との違いであるので、そこのところを少々。


そも、仏教は生き方指南である。釈尊は、目覚めよという事を繰り返し推奨されるが、その道として示されたのが、自己の内部から生まれてくる無明煩悩を克服することが具体的な実践であった。つまり、何かを拝めとか祈れというような要素はない。外部から自己増殖させるような力を取り込み、自己を特別化する方向はむしろインド社会の伝統的支配的権力的なバラモン教の構造であって。それを打破して新しい生き方をしようとした釈尊が、自分が別のカリスマになろうとされるはずはない。

むしろカリスマのない社会、全ての人間が同等であるという認識を核にして、それを実践的に展開されようとされた。もちろん、科学・技術と社会の生産力等の発展段階があるから、釈尊在世の言説と行動においては不十分なことが多くみられる。例えば女性認識とか、障害者への認識であるとか。まだ分化していない「家庭=直径家族」のこととか。それでも、人間が進むべきベクトルは明確に示されてある。

そのために、ダルマ=仏法(釈迦師匠おける普遍の法)と、それを態度化、言語化できるところの師(ブッダ=佛)、それに従いを学ぶところのサンガ=僧侶=学習者集団、これを三つの宝として、いつのどこの社会でも、尊重されて保持することを、運動として残された。

釈尊の死後500年後に、大乗仏教運動がインドで起こり、ブッダ=理想の人間像となり、ボディサッタ=菩薩、先達の実践者集団(死者も含む)によって、生老病死がもたらす個人における苦からの解放を目指す実践と思想が体系化された。これが日本に伝わった「仏教」である。そこには既に中央アジアナイズされたもの、中国ナイズされたものが支配的に含まれてあった。

しかしその本質、法を拠り所にし自己を拠り所をするという在り方、は内部に担保されていたが、、日本おいては、一神教的ブッダ=スーパーマン信仰、が広がり、国土(自然)・国家(社会)を守る一神教的な受け取り(仏教では領解といいます)がなされた(これを打破しようとしたのが、法然浄土教であるのだが、それは次に)。

これは、歴史的に残り、またキリスト教の伝来から、科学と融和し俗化したキリスト教文明による近代化によって、実は強化される。真宗でいうなら、戦国期に便宜として「教主の支配権」的言辞が爆発するが、これもその一種である。

戦争の無い江戸期には、社会維持の倫理を説き、仏道を歩むことが優先的に説かれて、先祖崇拝だの「死後に極楽でのんびり」、などという説教はなくなる。

むしろ戦争の時代となった明治以降において、そして大量の戦死者と戦争犠牲者が生まれた二次大戦によって、「あの世で安らかに暮らす≒神のもとの天国で眠る」という疑似キリスト教観念で強化された現世否定観が、仏教各宗派に大きなバイアスを与えた。

墓や葬式やらが熱心に求められたのも、そういう事態からである。死や思い出に形を与えることに熱心になる。

しかし、真宗も仏教も、そのコアとして「成仏道=理想の人間になっていく生き方」を形を変え折に触れて説き続けているし、

繰りかえしになるが、仏教徒として生きる、サンガの一員となって生きるのは、何か絶対的な尊師に帰依することではない。また、超能力を身に着けることでもない。ましてや、自然の中に身を置いて感じる孤独性や宇宙の中の自己という壮大な法則へへの畏敬や感動をもって、神秘主義にすりかえてはいけない。

極めて理性的に説かれるからこそ、智慧の教えである佛教。その意味では科学的認識は仏教と親和性が高いと言える。けれども、既に歴史の中で「仏教」が身に着けてしまった諸現象やベクトルについては、きちんと検討しなければならない。(続)









  • 今度の正月三日は(義理の)祖母の二十五回忌で、先日が少し早めの法事でした。熱心にお寺参りをしていた祖母は、自らの成仏をひたすら願っていたようで、内心違和感を抱いていたものの、大人になって、祖母の過酷な人生を知り、心のよりどころがあったことを、本当によかったと、あらためてしみじみ思いました。
    宗教がなくてすむのが最高の幸せなのかもしれませんが、歳を重ね、やはりあった方が幸せかもと、少しずつ思うようになりました。

    鈴木藍子

    2013/12/28(土) 午後 9:43

  • 顔アイコン

    aikoさま。御機嫌よう。今年も暮れようとしています。日常は、小・中・夜間の統合学校発足に向けての取り組みで、過ぎ去っていきます。一方で「生き方を問う」という仏教の本来性に基づく取り組みを広げる仕事もあって。命いただければ続けなければならない事が沢山あります。それが充実ということかもしれません。

    nazuna

    2013/12/29(日) 午前 0:34

  • 微生物だと異種生物を「敵」と認識する、又は「存在そのものを認識しない」傾向があります。

    そして同種が集まると、そのなかで「異種」を見つけ出し(造り出し)攻撃するものです。


    脳ミソを持った人間は更に面倒臭いことに(TT)

    [ 竹光侍2008 ]

    2013/12/29(日) 午後 6:21

  • 顔アイコン

    竹光侍さま
    免疫系の研究のおかげで、生物学レベルで私たちは「自己同一性」を担保する存在であることが明らかになって。釈尊のおっしゃった「無明煩悩」、つまり意識して外部にはたらきかけて情報を収集して、ニュートラル(中道)を志向しないと、「あらゆる偏差を作り出す」のが私であると。ますます仏教が面白い!

    nazuna

    2013/12/29(日) 午後 6:42

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