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唯物論者である師匠は、「だからこそ人の心の問題」をデリケートに考えられてきた。ヒトは何故間違うのかということから「失敗の研究」をされたり。
nazunaは師匠の著作や発言を通して、法というものは人間が働きかけてこそ認識される、という当たり前の事に気附かされ、科学においてはそれが「実験」であるということを知る。 同一の条件下なら誰が行っても必ず同じ結果がでる。それを通して法則を発見しいき、それを体系化して科学は発展してきた。モノとコトに於いて。 やがて、その対象は「ヒト」にも及ぶのであるが。そのあたりから、社会科学という名目で多くのドグマが生まれる。師匠から一番教わったことがこれである。 その最小単位が授業。お寺でいえば法座。知っているものが知らないものに伝えるというのが「授業」の原義であるが、仮設実験授業は、科学の授業であるから、そうではなく「みんなお経験知をベースにして、実験的に結論を共有し、その積み重ねで真理に至る」という科学史そのもののアナロジーとなる授業。同じく真宗法座も、実は語りの中で聴聞衆と語り手が同一のフィールドを形成して、経典の言葉を共有して終わるという構造をもつ。学校ではないので、結論を受け入れるか否かは個々に委ねられるのであって、語り手が聞き手に結論を強制するという権力的構造にはないのである、そもそもは。 その本来性が、講義型の法話になってきた中で失われて、先生のお話をいただくとなってしまった。先生のお話、ではなく、真理のお話をいっしょに聞くというはずだったのに。 だから、板倉師匠の学校教育や科学教育への指摘が、いちいちうなずけるのであったということが、今、響いてきているのである。 |
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