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スウィートbonbon(壽光寺の内緒話)

書庫浄土真宗をカタル

元旦の法話

本願力にあひぬればむなしくすぐるひとぞなき 

功徳の宝海みちみちて煩悩の濁水へだてなし


 新春合掌。あけましておめでとうございます。夜中の新年でありますがよくお参りくださいました。天親菩薩さまの『浄土論』には、本願という言葉は二カ所出て参ります。その一つ「観仏本願力 遇無空過者 能令速満足 功徳大宝海」とございますのをやわらげて下されたご和讃がご讃題。仏の本願力を観じて~以下、というのは大変難しい言い回しであります。ここでは「観」と「遇=もうあう」という二つの動作を表すコトバが使われまして、その主語はいずれも如来さまであります。これが御開山聖人のお領解。如来廻向のおはたらきが称名という大行となり、如来の願い、すなわちわが浄土に引っとって仏たらしめる、悟りを開かせる、なぜなら現実の私やあなたがあまりにも理想の人間(十善のもの・中道を歩み煩悩を滅して悟りを得るもの)から遠ざかっていく生き方をしているからであります。


 それゆえに、捨ててはおけないというお慈悲心を起こして、本願を建て成就した撒いたがかの阿弥陀仏。親様でありますから、この観と遇を「本願力にあいぬれば」と仰せになる。そして浄土往生とは悟りに入るということですから、如来の一味の世界を大海として、それぞれ個々に煩悩まみれのままのものが如来の功徳によって、悟りに転じて行かれる世界を与えて下さったと喜ばれていますが。それが満足す。そうしますと、速という字が残る。これは時速秒速というように、動いているもののスピードを表す時に使われる時間の言葉です。これを少しうかがいたい。

 

 昨年を表すコトバは輪でありました。リングではなくサークルの方であろうと思いますが、人がつながっているという意味でありましょう。けれども、輪を作るとき私たちは必ず、ウチ外を無意識に作ります。

 30日の日に東京では、とある公園でホームレスの強制立ち退きがありました。大手メディアではニュースされませんでした。おもてなし、が流行語になり、オリンピック景気に逸る国民の中で、そこから静かに外されている人々があることを、如来様のお智慧はお教えになります。経済であれ宗教であれ、人間のすることは「分別」の智慧ですから、内外をつくってしまい自分を中心にした同心円を描いて、遠いものはゾンザイに扱います。そこで凡夫同士がよりますと、いろいろと珍妙なずれがでる。オリンピック=国民全体 という観念に囚われると、その「輪」から外されているものが見えない。 生駒山を家の物干しから毎日見てる人が、生駒へ久しぶりに言ってきたと言うご近所さんに「そんなら、ウチの物干しが見えやろ」「いや、見えん」「おかしいな。ウチからは毎日見える」と言うたというい話がある。笑っておられん話でありまして、私たちはそうであると知らされます。だからこそ、平等心をもってヒトモノコトを受けとめる者になてくれよと、南無阿弥陀仏と仏様の願いが、今ココの外でもないこの私の上にかけられ、はたらかれているのです。気づけよ目覚めよ育てよと。


 ついこの間、「僕が歩くと月はついてくる」という子と「月は動かん」という子の言い争いにあった。「そんなことあるか」「だって、この間の満月の日にお父さんと近所のコンビニに行ったら、僕が歩いてくるところをずーっとお月さんがついてきたで」「それは錯覚やろ。」「そんなことない。今歩いたらお日さんもついてくるで」「ほんまか」面白そうなのでついて私もいきまして。そしたら皆で「わあほんまや。雲のこっちからあっちへ抜けてついてくる」そこで、おっちゃんにも教えてと思わず話に入りまして「ほんまやな。ついてくるように見えるな」「うん、雲を追い抜いてついてくる」まあ、理科の先生の私はほおとけませんので、「あのな、ここにいちょうの木があるやろ、これを目印にして、雲と太陽としばらく見てみ」とものの一分もしますと、「ああ、太陽とちごうて雲が動いてる」「うん。歩くときについてくるのは、ものすごく遠い所に太陽や月があるからや」「こっちがずいぶん見る場所を変えても向こうから見たら、みんなはめえちゃ小さいからほとんど動いてないのと同じやねん。」こっちは1m先の砂を動かして説明しました。太陽と雲がどちらが動いているのか。それは動かないものを基準にしてみればわかります。もちろん太陽も動きますけれども、雲の方が速く去る。その太陽・月・星が動いているのも、地上の動かないものを基準としたときに、わかる。

 何がどれだけそこからズレているかがわかる。如来さまが我等衆生にかけられてある願力とは、浄土に生まれよという願い、成仏せよ仏になってくれというはたらきです。「仏」の完全な智慧で我等をご覧になると、そ我等ののズレ、愚かさが明らかにみそなわされてある。だからこそそれを憑みとせよ、支えとすべし、とこの口にかかって下さる南無阿弥陀仏の名号を通しておすすになる。

  新しい年は午ですが、午というのは午後午前の午という字を書きます。午の刻が24時間制でいう11時から13時をさし、その真ん中ですから正午というのが、お昼の12時となります。その昔は、お寺の鐘や太鼓で時を知らせたそうで、大阪城では時太鼓、御維新後は連隊がでできましたので空砲をドンとうちまして合図したと聞きます。それがないと、今のように時計がありませんから時刻がわからん。ドンならんなあ、というと時がわからなくなる。基準がなくなるのですから、秩序が乱れてるなあと。じゃあそのドンは何を基準にして打ったのか?太陽の南中だそうです。結局私たちは地球や宇宙の法の中にある。それに包まれて存在しているのであるのですね。仏法が願力となってある、それが生きる基準。速ということを比較ではなく、全体的かつ絶対的ものとして、AならばB,という時のAとBに時間差を見ない。ちがうけどいっしょという有様といただきます。

 無雑無疑の真実心は知らされた時にはいただかれてある。比較できない速さで今あられるから「速満足」を「みちみちて」とおっしゃる。本年も身に余る如来の願力によって浄土への道を育てられていく私どもであることを喜び喜び、報謝の念仏絶え間なく。ご相続いたしましょう。

 肝要は上人一流章御拝読。

nazuna
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