|
みじかく
「無帰命安心」という問題がある 科学と信条との混同により、客観と主観の使い分けににより おこる大問題 これを、「宗教の世俗化」とした上で、近代社会を無限定に賛美する人もある そういう指摘をしながら、そこ(底?)から一歩こっちへおいでと、工夫努力をされている 釈徹宗師のような方もいらっしゃるのだが。 しかしながら、これは結構根深く 日本仏教の各宗派は、「如来蔵思想」すなわち、全ての人には差別なく「ブッダになるタネ」があるというのを、無限定に広げたので、収拾がつかなくなった。 A .全ての人がブッダになる可能性がある→悟っていないのは煩悩が邪魔をしてそれを隠しているから→だから煩悩を滅する道を選択して生きる というコースのはずが B 全ての人がブッダになる可能性がある→悟っていないのは煩悩が邪魔をしてそれを隠しているから→死ねば煩悩はなくなるから、死後はみな安楽 と認識させたのですね。太字赤のところは なーんとなくそうでしょという感じなので、葬式や法事にお経を読んでもらって「保険的な安心」を得ると あの、Bが本当なら、一切の宗教・宗教実践は必要ないですね |
全体表示





いやー。なるほど、ですねえ。私は、今の今まで「死ねばホトケ」というロジックはいったい何処から沸いてきたのか?かねがね、疑問に思うておったのです。Bのロジック、実にすごいというべきか。
しかし、たしかに、これは一切の宗教は不要ですね(苦笑)
日本人が無宗教だといわれるゆえん、かもしれませんねえ。なんとなく、このB説を無意識に信じてしまっているところがあるんかな、と。
2014/2/10(月) 午前 11:17
この場合、興味深いのは、道徳・倫理、すなわち日常のおける人の道のことです。欧米社会の場合もまた、非近代社会でも、人を支配するところの「神」という前提があって、そこから日常生活の規範が生まれます。どっちが先かおいといて、つまり宗教と倫理・道徳は、仏教でいうところの「真諦」と「俗諦」なのです。で、現代日本社会や共産主義では「宗教は時代遅れでやっかいなもの」として脇舞台におきます。なら、倫理や道徳の基盤をどこからもってくるのか???ということです。文部省が「道徳」を教科にするのですが、その内容をどこから持ってくるのかに興味津々です。
2014/2/10(月) 午後 2:38