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ウソも方便ということわざがある。 芸能風にいいかえると 「フィクションもノンフィクションを超えることがある」 学問風に 「言語は其の社会のコードから生まれコードを絶えず書き換えていくという人類の共同行為であるので、コードの変換課程では、言語表現そのものが無効になったり、無意味なものが意味を帯びることもある」 ネット上に形成されるお寺がある。それは一つの可能性である。ヴァーチャルリアリティの場であるから、それぞれの参加僧侶や信徒が自分の現場でリアライズすることは前提として、フリーな形で新しいコードを生み出す可能性もあるなあと。 この何年かそのいう感覚で「虚空山・彼岸寺」を拝見してきた。 でも、そういう形成にならなかったね。 例えばメール。 「8月盆も残すところ僅か、お坊さんも正念場! 彼岸寺も盛り上げていきますので、ぜひお参りくださいね。」
だそうです。で人気記事は、禅僧がお書きになった「御霊具禅考」。
「現在、お盆の棚経(たなぎょう)の真っ直中です。 棚経というのはお盆の時期に、精霊棚(しょうりょうだな)を設けて種々の供物を用意し、僧侶を招いて読経して死者の霊を祀ることを指します。 江戸時代になってから、各寺院の僧がそれぞれのお檀家さんのお宅をまわって読経するような現在の形になったと言われています。 」
つっこみどころ満載のこの文章が、何の論争もなく掲載されているってどういうことなの?
死者の霊を祭るのが「禅宗」であることを初めて知りました。僧侶は霊になることを目指すんですかね。成仏道だとばかり思っていました。また「〜と言われています」と誰の言葉か責任とらない言い方。厳しい禅問答はどこへ???
というような、この発言もふくめて、各教団の歴史性や現実の僧侶の日日と成仏道とがどういうことになっているのかとか、戦後の宗教表現抑圧や神社が宗教法人になっていったことやら、地域での民俗信仰の実態やらを、まるごとそのまま無批判に受け入れて「こんなもんさ」としないためにできているネット空間じゃなかったのか???
ネットのお寺といいながら、そこに仏教そのものを考え問い直す回路がない。ただお寺に関心をもってもらい仏事に関心をもってもらいという宣伝パフォーマンスの場になり果てています。
各人が一人の僧侶として、日常の宗派では縛られてフリーにできない発言や行動や企画をネット上の他者の支持によって可能にしていく場、という私の期待とは、違う方向へいっちゃったんです。
このコラムでも「仏壇に祀られているご先祖様は、仏弟子となる儀式(授戒会)を旨とするお葬式を経ています」とあって。
ここだけでも例えば豊かな議論ができるはず。
「じゃあその御先祖さまは、霊なの? 仏弟子となってもまだ成仏していないの?」という疑問。
「お盆だけお迎えし帰っていただく」ってどうなの?
「そもそもお盆でなに?」「読経=死者を祀る、っていう禅宗の認識はいいの?」
誰かが疑問をはさめば、日本仏教の中でもっと切磋琢磨されて現代社会、人類史における仏法の意義にまで迫って行ける可能性があるのに。
というわけで、私が勝手に期待していたぶん、がっかり度が高かったというお話。
ただ、このHPで展開されている「仏教」への率直な感想は、
「ウソも方便と、世間に迎合しているうちに、方便は嘘ということになってしまいましたね」なので、これを真宗においても自坊においても、そして在家僧侶と云う生き方に恵まれた一人として、自戒としておきます。
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御記事で興味を持って、虚空山彼岸寺を拝見しました。なんといいますか、、、正直な感想をいえば、お寺ファッション誌のような感じ、がしました。適切な喩かどうか、わかりませんが。
仏教に興味を持ってもらおう、という意気込みは伝わりました。ただ、「必要」ではないんですね。ファッションというのは、生活を彩るものですが、生活に「必要」ではないわけです。そんな感じがしました。
2014/9/9(火) 午後 2:08
ああそうです。まるでさらりと脱ぎ捨てられるような「宗教」ってなんだろうと。うまく言ってくださいました。ノドの閊えがとれました。
2014/9/10(水) 午前 0:01